ガルダ湖の湖畔にて


雲ひとつない、澄み渡った春の日の朝方。
寝ぼけ眼で窓を開けると、少しだけ冷んやりとした風が頬を撫でていった。
誘われたように部屋を出ると、どこからともなく焼きたての小麦の香りが漂う。
石畳の路地を進んだ先の古い趣のある扉を開けて、おすすめのパニーニを一つ注文する。

紙袋に入れられたそれを受け取ると、逸る気持ちを抑えて軽快な足音と共に掛けていく。
どのくらい歩いただろう?あるいはほとんど歩いてないかもしれない。
でも、少しずつ道がひらけてきて、それと一緒に心が浮き立ってくる。
やがて目に飛び込んできたのは、朝日に照らされて輝く湖だった。

湖面から空にかけて、翡翠色から群青色へと移ろっていて、
まるで境目がわからないくらい溶け合っている。
汀に近づくと柔らかな漣が立っていた。
海の力強いそれとは違う、優しい音が耳に届く。
爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込んだら、思いがけず笑みが溢れていた。

近くの石に腰をかけながらパニーニを堪能した後、帆布のトートバッグから愛書を取り出した。
そして色褪せた紙のページを捲りながら、穏やかな時間に身を委ねた。
晴れの日のガルダ湖の写真。湖から空にかけてブルーを基調としたグラデーションが美しい。
ある晴れた日の湖

イタリアの有名な湖といえば、ミラノの少し北にあるリゾートとしても有名なコモ湖を思い浮かべる人が多いかと思います。ですが、実はイタリアで最も湖水面積が広いのが、ヴェローナというロミオとジュリエットの舞台として有名な街の西側に位置するガルダ湖です。

ガルダ湖沿いの街の様子。
湖岸のカフェやレストランなど

僕が滞在していたのはガルダ湖の東側に位置するラツィーゼという小さな街でした。湖沿いにカフェやレストラン、ジェラテリアなどが並んでおり、美しい景色と共においしい食事が楽しめます。この街に訪れている人は皆、湖岸で日光浴をしたり、家族や友人と語らいながらカクテルを飲んだり、とにかくリラックスして過ごしていました。常に人でごった返していて、やや殺伐とした雰囲気を感じることもある大都市とは全く別世界のようなのどかな雰囲気です。僕もジェラートを食べながら湖畔沿いを散歩して、日常を忘れてぼんやりと過ごしていました。訪れたのは春先でしたが、暖かな日差しの中、時々少しひんやりとした風が吹いていて、とても心地よい気候でとても過ごしやすかったです。

曇りの日のガルダ湖の写真。湖面から空にかけてグレーを基調としたグラデーションが広がる。
曇りの日の湖

滞在中一日だけ曇りの日がありました。幸い雨は降らなかったので、少し冷たい空気を感じながらも湖畔沿いを散策してみると、晴れた日の透き通った淡いブルーのグラデーションとは違った、冷たい灰色の世界が広がっていました。同じ湖でも空模様や風によって全く違う姿を見ることができるというのは、自然のなせる技だと思います。二度と同じ景色は見れない儚さこそが美しさを生み出すのかもしれません。

夕陽が沈みゆくガルダ湖の様子。
湖面に落ちる日

こういった美しい自然や景色を目にすると、絵が描けたら良かったのになぁと心底思います。僕の祖父は生前趣味で絵を描いており、いまでも実家に彼の作品がいくつか残っています。それらを見るたびに、幼少期の頃に彼が鼻歌を歌いながら漕ぐ自転車の後ろに乗せられて、公園や玩具屋や酒屋などと祖父宅の近所を回っていた思い出が浮かびあがり、懐かしい気持ちになります。僕もいつか、この長い長い旅で見た印象を何か描いてみようかと思います。

どんな時でも違う表情を見せてくれる湖と、穏やかな街並みがとても好きになりました。また違う季節にも訪れてみたいと思います。

偉大なる先人たちが似たような事を述べているので今更かもしれませんが、こういった景色を目の当たりにするたびに、自然の持つ表現力というのは人間では到底及ばないのではないかとしばしば思わされます。その人智を超えたなにかを、人はあの手この手で表現しようとするのですが、なかなか上手くいかず、上手くいかないからこそ楽しいのかもしれません。


夜、陽が沈んだ後のガルダ湖。
夜の湖
すっかりお気に入りになったピッツェリアで、おすすめのカプリチョーザを堪能した。
お酒も楽しんで心地よい酔いに包まれながら、帰路につく前にふと湖畔へと足を向けた。

夜の暖かい闇を映し出す湖は、朝とはまったく違う貌をしていた。
深い藍色に沈むその水面は全てを包み込む宇宙のように神秘的で、瞬く間に目が奪われた。
夢中だった私は、一筋の涙が頬を伝っていることにさえ気づかなかった。

どれほと時間が経っただろうか、私は静かに部屋へと戻った。
冷たい水を飲んで、地に足がついた気がした。
でも、心は今だに無重力を彷徨っているような気がした。
ふと思い浮かんだことを、忘れないうちに愛書の巻末に書き留める。
それはきっと、一生忘れられない夜になるだろう。