2年前にとうとうラルディーニまでもがリブランディングを行った様に、近年の傾向として、所謂イタリアクラシコと呼ばれるカテゴリに分類されていたブランドなどがトータルブランディング化を加速させているという印象があります。
パッと思い浮かぶイタリアのトータルブランドといえば、ブルネロクチネリやキートンなんかのラグジュアリー路線のブランドはもちろん、シャツブランドとしてのルーツを持つボレッリやバルバ、生地商として始まったゼニアやロロピアーナなんかも、最早なんでも作っていますよね。
僕は別にトータルブランド化を否定したい訳ではないのですが、一方で我々消費者は今一度、地に足をつける時なのかもしれないとも感じています。今回はトータルブランド化がもたらす影響と、それに伴うライフスタイルの無個性化に対する個人的な杞憂についてを、淡々とお話ししていきたいと思います。
トータルブランドとはつまり、世界観の提案である
そもそも、トータルブランドって何?っていう方もいらっしゃると思います。色々な説明があると思いますが、ここでは「ある一定の世界観の元、それに即したバリエーション豊かな製品をプロデュースしているブランド」ということにします。一番わかりやすい例がラルフローレンだと思います。ブリティッシュアメリカンと呼ばれる、英国の伝統的なスタイルにアメリカ的要素が入り混ざった、デザイナー本人の美意識が反映されたアイテムが特徴で、フォーマルからカジュアルに至るまでどんなジャンルのアイテムでも作っていますよね。
ラルフローレンが愛される理由は、なんと言ってもその世界観が普遍的でありながらほんの少しだけ革新的で、幅広いスタイルに取り入れやすい事が何よりの理由だと思います。例えば、メインラインのポロラルフローレンのシャツの、世界観を抜きにした”製品”としてのクオリティは、無名ブランドの手作業が多いシャツより低い事だってザラにあると思います。ですが、ラルフローレンのシャツには”世界観”が加わりますよね。

個人的な意見として、ファッションにおいてはこの”世界観”という概念は非常に強い役割を持っていると思います。洋服はただ洋服単体として存在するのではなく、常に着用者の生活感や思想と密接に繋がっているからこそ、何より着用者本人が共感でき、そしてそれを見る人も共感できる根拠として”世界観”という概念が働きます。
これまでは世界観は誰が生み出していた?
メゾンブランドはさておき、今でこそトータルブランドと化した多くのブランドも、昔は何かの専業として洋服を作っていました。ただ、それでは世界観を生み出すことは難しいですよね。ジャケットだけ作っても、それに合わせるシャツやネクタイ、パンツだって必要です。もう想像がついていらっしゃる方もいると思いますが、今でいうセレクトショップがその役割を担っていました。数多の専業ブランドの提案から、卓越した審美眼の下で編集して、独自の世界観を作っていました。
ミラノの名門セレクトショップであるTINCATIのジャケットのお話をした際にも軽く触れましたが、イタリアに在住していると、往年のセレクトショップがオリジナルとして販売していたアイテムを見かける事が沢山あります。ぱっとジャケットを一、二着見ただけではあまりその違いが判断出来なかったのですが、数を沢山見ていくにつれ、ショップ毎の独自の思想のようなものが見えてきて、それぞれが提案していたであろう世界観を感じ取ることが出来ます。
また、例えばブリオーニのジャケットなどは、各地のセレクトショップが別注をかけたダブルネームの物が沢山あり、同じブリオーニ製でも全く雰囲気の違う仕上がりになっていたりと、いかにセレクトショップのセンスが生きていたかというのを感じます。

イタリアのセレクトショップは大規模でなく、本当に地域に密着していた事からも、より細かく人の生活に密着した「リアルな世界観」を提案できていたのではないかと思います。また、それによって、人々のスタイルも街毎に違ったり、旅をして新しいスタイルを知って、それらをミックスする楽しみなんかも今より断然あったのではないかと思います。情報にアクセスする手段が乏しいからこそ、消費者はセンスのいいお店との繋がりを大切にしますし、お店側も常に最高の提案が出来るように心がける。世界観やライフスタイルはそういった身近なところから生まれており、ある意味現代より自然な状態だったのかもしれません。
トータルブランドが齎す堕落
ブランドという大きなサプライヤーではなく、地域の馴染みのセレクトショップという小さなサプライヤーが世界観を提案する一番のメリットは、やはり個人個人に最適化しやすい事に尽きると思います。顧客の傾向を直接知っている人が、洋服屋としての嗜好やアイデアを載せた提案をして、それにまた顧客が反応して次のアイデアが生まれるといった様に、人と人と掛け合いがが生み出す、ブラッシュアップされて、より内容の濃い世界観というのは、その人の個性や生き様を再現するのに大きな役割を果たすと思います。
対して、現代の傾向ではブランドという大きなサプライヤーが”みんなが憧れるべき理想的な世界観”を生み出し、それを一方的に与えて、消費者はそれを追いかけるといった図式になってしまっているのではないかと思います。

イタリア的ライフスタイルといえば、フェデリコ フェリーニの”La Dolce Vita”で描かれるような、退廃的なライフスタイルなんかもそうですが、世の中にはいくつかテンプレート的に用いられるライフスタイルがあると思います。トータルブランドはその”みんなの憧れる要素”を取り入れつつ、ブランドが持つルーツを組み合わせたライフスタイルを提案している。これがトータルブランド化による一番大きな効果だと思います。ライフスタイル提案というと聞こえはいいですが、僕の個人的なお気持ちとして「お前はワイの何を知っとるんや」という言いがかりをつけたくなるという事です。
冗談はさておき、こう言った大きな括りでのライフスタイル提案には良い面も悪い面もあると思っています。まず良い面として、ブランドがどんな思想を元に製品を生み出しているのかがより明確になります。デザイナーズブランドが打ち出すような思想とは違い、着用者の人物像などを打ち出す事により、大衆から一定の共感を得る事ができ、ファンを生み出す事が出来るというのは、ブランドの商業的側面からするとメリットしかないと思います。また顧客側も、あまり難しい事を考えず、手軽に”かっこいいとされるライフスタイル”を模倣することが出来ます。
ただデメリットとして、こういった提案方法が継続されてしまうと、マス層においてライフスタイルの画一化が起きるのではないかとも思っています。もちろん値段が値段なので、犬も歩けばクチネリに当たるなんて状態にはならないと思いますが、トータルブランド化が加速すると、そのブランドの洋服がある一定のコミュニティ内の制服の様になってしまうのではないかと思っています。最近ではトレンドという概念が縮小していて、より人々の好みによって細分化されているなんていう話を聞きますが、個人個人がというよりは一定のコミュニティ毎に断絶されてしまっており、それぞれ別の容器に入ってしまっているだけで「実際に蓋を開けたらみんな同じ服を着ている」といった現象が起きるのではないかとも思っています。
良い選択とはいったい?
人の人生はそれぞれなので、みんなが同じライフスタイルに憧れているというのは違うと思っています。もちろん僕も忙しい時などは、クルーズの上でで酒を飲み続けるだけの自堕落な「不必要なラグジュアリー」を味わってみたいとふと頭によぎったりしますが、みんながそういった典型的な富豪像のようなものを目指して人生を歩んでいくのも違うと思います。
洋服ひとつ手に取るにしても、自分の人生にまず誇りを持って、その素晴らしい人生を彩ってくれる物のみを手に取る。それ以外は高かろうが安かろうが、自分の人生には関係ない。そのくらいの気概を皆が持っていても良いんじゃないかと思います。洋服に限らずその様に手に取った洋服こそが一生ものになると思いますし、個性が生まれると思います。
僕の勝手な想像ですが、街で信頼され、尊敬されていたような名セレクトショップは、一人一人に寄り添って、世界観の提案を通して「人生の構築を手助けをする」ような立ち位置だったのではないかと思っています。大企業的なブランドやお店はそこまで寄り添った提案が果たして出来るのかは少し懐疑的です。商業的に大きくなるということが必ずしも”最適の選択を生み出すわけではない”という事だと思っています。
まとめ
今回は超個人的な意見となってしまいましたが、いかがでしたでしょうか?お楽しみいただけましたら幸いです。僕も自分への戒めとして、自らの選択を今一度見直してみたいと思っています。他にもいろんな記事を書いていますので、暇つぶしにお読みいただけますと幸いです。

