奏法は理想の音を生まない?|ピアノにおけるテクニックとは何か

「脱力して下さい」

ピアノを習ったことのある方なら、一度は言われた経験があるのではないでしょうか。そして、言われてその場で脱力できた記憶のある方は、たぶんほとんどいらっしゃらないと思います。

手首の高さ、指の立て方、腕の重みのかけ方。世の中には奏法についての教えが溢れていますが、その多くが根拠が薄い。にもかかわらず、どれもが「正しい弾き方」として語られている。今回は、筆者の演奏と指導の経験に基づいて、そもそもテクニックという言葉が何を指しているのか、そしてそれを身につける順番について考えていきます。

先に申し上げておくと、これは技術を軽んじる話ではありません。むしろ逆で、テクニックは大切だけど、しばしば勘違いされがちだという話になります。 その理由は読み進めていただければ分かるかと思います。

同じ動きだと思っても、同じ音にならない

まず、ひとつ事実を確認しておきたいと思います。

ピアノという楽器は個体差があります。鍵盤の重さも、戻りの速さも、ハンマーの状態も違う。その上、椅子の高さが数センチ違えば腕の角度が変わりますし、部屋の響きが違えば自分に聞こえてくる音量そのものが変わります。空調の音、外を走る車の音、果ては照明の明るさまで、私たちの感覚には作用してきます。

そして、楽器を持ち歩けない我々は、常に”そこにあるピアノ”を弾く必要がある。つまり、演奏の条件は毎回違います。 昨日と全く同じ条件を用意することは、練習室を一歩出た瞬間から事実上不可能になります。

本番で事故が起きる一因は、“いつもと違う”条件への適応です。これは精神論ではなく、単に条件が変わったからです。そしてここに、動きを覚えるという方法の弱点があります。特定の動かし方を覚えるというのは、特定の条件でだけ正しかった答えを覚えるということだからです。条件が変われば、覚えた動きをそのまま適用できるとは限りません。そしてピアニストである以上、条件は常に変わります。

メカニックとテクニックは、違うもの

ここで、言葉をひとつ分けさせてください。

日本語では、速く正確に弾けることも、思い描いた音を出せることも、まとめて「テクニック」と呼んでしまっています。しかし、本来もう少し細分化されるべきだと感じています。なので、速く、正確に、ミスなく弾ける。これはメカニック。 そして思い描いた音を、確実に出せる。これがテクニック。と分けて考えてみてください。

この区別は、些細な言葉遊びではありません。メカニックは指と鍵盤の間で完結しますが、テクニックは「思い描いた音」が先にないと成立しないからです。届かせたい先がなければ、そもそも届いたかどうかを判定できない。メカニックだけを磨くというのは、的を立てずに弓を引いているようなものです。

僕自身、子供の頃は奏法の答えを集めていた時期がありました。ある先生の言葉、ある本に書かれていた方法、ある演奏家が語っていた感覚。それらを集めれば、いつか正解に辿り着けるのだと思っていたのです。しかし集まったのは、互いに矛盾する断片の山でした。

機械的な演奏の正体

メカニックの偏重が何を生むかというと、巷で言われるような機械的でテクニックだけが聞こえてくる演奏です。

速い。正確。ミスがない。音は揃っているし、指はよく回っている。それなのに、聴き終わったあとに何も残らない。皆様にも、心当たりのある演奏があるのではないでしょうか。大変な時間をかけて練習したのだけが見えるってなんか悲しいですが、要は届かせたい音を持たないまま、届かせる手段だけを磨き上げるとこうなるのです。手段は完成しているのに、目的が空欄になっている。

変な話、フリーハンドでどんな直線、曲線をもかけるけど、ただそれだけを見せていて、鳥を描きたいのか、それとも人の顔なのか、よく分からないみたいな状態に陥るのですね。ピアノにおいても、奏法の話が時々ひどく空疎に聞こえるのは、この空欄に触れないまま、手段の精度だけを語っているからだと個人的には思っています。

自分の体の感覚は、思ったより当てにならない

では、なぜ「こう動かせ」という教えが、これほど乱立してしまうのでしょうか。

ひとつには、自分の体が今どうなっているかという感覚が、思っているほど精密ではないからです。ピアノの状態が毎回変わるのと同じように、体に力が入っているかどうか、腕の重みが鍵盤に乗っているかどうか。この種の感覚は、その日の疲労でも、部屋の温度でも、緊張の度合いでも変わります。自分では同じように動かしているつもりで、実際には毎回違う動きをしている。これは誰にでも起こります。

だから、動きの感覚を言葉にして誰かに手渡そうとすると、どうしても人によって違う言い方になります。ある人が「肩を落とす」と言い、別の人が「支える」と言い、また別の人が「抜く」と言う。どれも嘘ではなく、その人の体でその人が感じた通りのことを言っているのだと思います。

問題は、それが受け取った側の体でも同じように働くとは限らないところにあります。そして先生も生徒も、その保証がないことに気づかないまま、言葉だけを受け渡してしまう。 奏法の教えが矛盾したまま並存しているのは、誰かが間違っているからという可能性もありますが、構造的な問題も大きいと思います。

「あの人はこう弾いている」という説明について

最近は、手や腕の使い方から音色を説明する解説を、動画などでもよく見かけるようになりました。この件について、個人的にひとつ引っかかっていることがあります。

ああいう解説は、それを自分で吟味できるレベルの人が観る分には、間違いなく有益です。 自分の体で試して、合わなければ捨てられる人にとっては、アイデアの引き出しが増えるだけですから。しかし、その吟味ができる人は、そもそもああいうものを当てにしないのではないでしょうか。逆に、当てにせざるを得ない段階の人には、吟味する手段がまだない。必要としている人ほど使えない、という捻れがあるように思います。

もうひとつ、「あのピアニストはこう弾いている」という形の説明にも注意が必要です。

演奏家の中には、外から見ると何が起きているのか本当に分からない動きをする人がいます。手の形も、腕の運びも、教科書的には明らかに外れている。それなのに、とんでもない速さで、しかも極上の音で弾いてしまう。そういう人は実在します。

目で見えている動きが、音を作っている動きであるとは限らないのです。

しかも影響しているのは筋肉の使い方だけではありません。腕の長さ、手の大きさ、肩から指先までのバランス、関節の可動域、そして体そのものの物質的な強靭さ。同じ動きを毎日繰り返しても壊れない体の人と、そうでない人がいます。体もまた条件の一つです。腕の長さや手の大きさ、骨格や関節の構造など、練習ではほとんど変えられない部分もあります。

ですから、ある人にとっての最適解が、別の人にとっては遠回りどころか、故障への近道になることさえあります。模倣が難しいのは、真似する努力が足りないからではありません。前提が違うのです。

そして、ここにピアノという楽器に特有の落とし穴があるように思います。

陸上でも水泳でも、一流選手のフォームを真似れば同じ結果が出ると本気で思う人は、まずいません。根本的な体格が違うことが、見ればすぐに分かるからです。 ところがピアノは座って弾く楽器で、スポーツのように全身が大きく動くわけではありません。動いているのは主に指と腕で、しかも体の大半は譜面台の向こうに隠れている。身体的な条件の差が、あまり考慮されないのです。

その結果、ピアニストの身体について語られることは、手が大きいからオクターブが楽に届くとか、体格がいいから大きな音が出せるとか、目で見て明らかに分かる部分にばかり偏ります。 しかし実際にできることの範囲を決めているのは、もっと地味な部分だったりします。同じ負荷を毎日かけ続けても壊れない筋組織の強さ、長時間の演奏に耐える持久力、連打や跳躍を繰り返したあとの回復の早さ。このあたりは、外から一切見えません。

ですから、ある演奏を前にして「あれはこういうテクニックの成果だ」と言い切ることは、本当は外からはできないのです。そこで起きているのが技能なのか、資質なのか、見た目だけでは切り分けられない。 弾き方の分析として語られているものの中には、実のところ体そのものの話だったものが、相当量混ざっているはずだと個人的には思っています。

練習は、料理でいう味見である

ここまでは、動きを覚えるという方法の限界の話でした。ではどうするのか。

僕は、練習とは料理でいう味見のようなものだと考えています。

奏法の指示は、レシピです。塩を何グラム、火を何分。しかし料理をされる方ならご存知の通り、レシピ通りに作っても同じ味にはなりません。その日の食材が違い、鍋が違い、火加減が違うからです。だからどんな料理人も、必ず味見をします。塩の量は、覚えるものではなく、味見して決めるものなのです。

ピアノも同じで、条件が毎回違う以上、覚えた分量は当てになりません。頼りになるのは、出てきた音を自分で聴いて、足りているかどうかを判定する行為のほうです。

そしてここが肝心なのですが、味見は、料理の仕方を教わるより先に身につくものです。子どもでも、美味しいかどうかは分かります。作れるようになる前から、判定はできる。ピアノの学習において、この順番が逆になっていることが、しばしばあるように思います。

味の語彙が貧しいと、味見をしても何も分からない

ただし、味見をすれば自動的に分かるかというと、そうではありません。

甘い、しょっぱい、その二つしか語彙のない人が味見をしても、「なんか違う」で止まってしまいます。酸味の質、油の重さ、香りの立ち方まで言い分けられる人は、何が足りないのかが分かる。判定した違いを細かく捉え、再現可能な形で整理するうえで、語彙はかなり役に立ちます。

音も全く同じです。「なんか違うなぁ」で止まる人と、「明るすぎる」「湿りすぎている」「芯が細い」まで出てくる人とでは、次の一手がまったく変わります。

ところで、音に湿度があるという言い方は、よく考えると不思議です。音は空気の振動で、湿ってはいません。それでも「湿った音」と言われれば、多くの方が何のことか分かるはずです。私たちは音を語るとき、音の外側から言葉を借りてきている。 明るさは光の言葉ですし、重さも、硬さも、色も、全部そうです。

つまり音の語彙を増やすということは、音楽の中だけを見ていてもできません。絵を見て、天気を感じて、食べて、匂いを嗅いだ経験が、そのまま音を判定する物差しの目盛りになります。語彙は音楽の外から入ってくるのです。

語彙力が高まると、異変に気づくのが速くなる

そして「いいと思う音」がどういう感情と結びつくのか、どういう場面と結びつくのか。繋がりが増えていくと、物差しは単なる直線ではなく、より立体的に測ることができるようになります。

その目盛が荒く、直線的と、音を前にして出てくるのは「なんか違う」だけです。目盛がより細かければ細かいほど、鳴った瞬間に「湿りすぎ」まで一息で出てくる。そして、どこをいじればいいかも見やすい。つまりこの物差しの差は、直すまでの速さの差になります。

よく、耳のいい人は反応が速いと言われますよね。あれは生まれつきの反射神経の話ではなく、その物差しの正確さの話です。気づくのが速いのではなく、気づいた内容が具体的だから、次に何をするかがすぐ決まる。もちろん感覚の鋭敏さというのは資質の1つであることは否めませんが、それでも積み上げが判断力に及ぼす結果はとても大きいです。

そこで初めて、テクニックの出番

ここまで来て、ようやくテクニックの話ができます。

テクニックとはつまり、その目盛で測られた違和感を物理的に訂正するための手段です。 思い描いた音があり、それが出ていないと判定でき、何が足りないかまで言えている。そこまで揃って初めて、「ではその音を出すにはどうすればいいか」という問いが立ちます。この問いに答えるための技術が、テクニックです。

順番が逆になっていると、この問いが立ちません。問いがないところに手段だけが置かれるので、奏法の話が宙に浮いてしまう。

ここで気づくのが、先生によって言われることは本当にばらばらなのに、最後は全員が「ゆっくりさらえ」と言う、ということです。

なぜあれだけが流派や系統を越えて一致するのか。僕は、『ゆっくりさらえ』という指示には、単に動作を容易にする以上の意味があると思っています。鳴らして、聴いて、判定して、直すための時間を確保できるからです。遅く弾くというのは、鳴らして、聴いて、判定して、直すという一周が終わるまでの時間を確保する行為です。速度を上げると、一周が閉じる前に次の音が来てしまう。そうなると判定は回せませんから、覚えた動きをそのまま流すしかなくなります。

ゆっくりさらうのは拡大コピーのようなものだと以前の記事で書きましたが、拡大されているのは動きだけではなく、判定のための時間でもあるわけです。

念のため申し添えると、これはメカニックの話をするなということでは全くありません。指が速く動くということは、その分運動機能が強いということでもあります。ただ、テクニックの話をしたいのであれば、この動きは何のためにするのか、どんな音のためにその重さをかけるのか。というところまで繋がっていなければいけません。そん順序さえ守っていれば、奏法の話はとても有効です。

では、何をすればいいのか

ここで具体的な練習法を並べてしまうと、テンプレ的な処方箋を批判しておきながら新しい処方箋を配ることになります。それに、何をすべきかは人によって違います。ですので、ここでは考え方の方向だけを書かせてください。

まず教える側であれば、正解を渡すのではなく、生徒の引き出しが増えるようなアイデアを出すことだと思っています。 「こう弾きなさい」は引き出しを一つに減らす行為ですが、「こういう音もありますよ」は引き出しを増やす行為ですよね。個人的に、判定する力を育てるには、本人に選ばせる経験がとても重要だと思っています。二通り弾いて、どちらが好きかを先に選んでもらう。理由は後から言えばいい。弾いた直後に、今のはどんな音だったかを一言で言ってもらう。正解を求めず、言葉が出てくること自体を目的にする。録音を聴いてもらって、弾いている最中の実感とのずれを確認してもらう。このあたりは、実際に効くと感じているやり方です。生徒が子供だから、大人だからというのはここではあまり関係がなく、本人の答えが素直であるかどうかがより大切だと感じています。

自分で練習する場合は、物足りないと思ったときに、何が足りないのかを言葉にするところまで踏み込むことでしょうか。「うまくいかない」で止めずに、明るすぎるのか、重すぎるのか、立ち上がりが遅いのかまで詰める。もっと言えば「べちゃべちゃしている」とか「モキュモキュしている」とか、謎のオノマトペでもいい訳です。むしろそこまで出れば、次に何を試せばいいかは自然と絞られてきます。味見をして、何かが足りないと感じたところで満足して止めてしまう料理人はいませんよね。

学ぶ順番の大切さ

最後に、誤解のないように書いておきたいことがあります。

判定する力を鍛えるというのは、弾きながら自動的に自分を採点し続ける状態を目指すことではありません。例えば舞台での演奏中に延々と自己評価が走っていたら、音楽は止まってしまいます。目指しているのは、練習時に強く意識しなくても、自分の演奏の異変、理想との乖離に察知できて、修正を試みるための方法を取得することです。

特に初期から中期の学習で判定する側を先に鍛えるのは、それを後から意識の下に降ろすためです。先に染み込ませておけば、やがて考えずともある程度働くようになる。もちろん、新しい曲を練習するときでも、今までやったことのある曲を弾く時でも、一生その判断を繰り返す羽目になる訳ですが、効率が全く違います。そしてある段階から先は、また前提が変わります。譜面を見た段階でにもう理想の音がある程度決まっている、という領域に入っていくからです。そうなると、そもそもいい音とは?という宇宙的な質問をある程度簡略化できます(もちろんこれについても話だすとキリがないことは確かですが)。

繰り返しますが、速く正確に弾けることと、思い描いた音を出せることは、まったく違う能力です。そして後者は、指を動かす前に、自分の音を聴く癖をつけるところから始まります。もし今、練習していて何かが足りないと感じていらっしゃるなら、その「何か」に名前をつけてみるところから始めてみてください。名前がついた瞬間に、それは解ける問題に変わります。

干梅 太郎

イタリア在住のピアニスト。クラシック音楽と、イタリアの古い服について書いています。
プロフィールを見る →


Spotlight

Spotlight