弾き手と聴き手の陶酔の違い|ドビュッシー「月の光」に見る楽譜と陶酔に関する解釈

ドビュッシーの「月の光」はクラシック音楽の中でも、おそらく最もよく知られた一曲ではないでしょうか。映画にもCMにも使われ、癒しの音楽として紹介され、リラックス用のプレイリストでもよく見かける。聴く分には、身を任せていれば気持ちのいい曲です。

ところが、弾く側に回った瞬間、この曲は急に厄介になります。どこをどれだけ揺らしていいのか、どこまで歌っていいのか、まるで見当がつかなくなる。気持ちよく弾いたつもりが、録音を聴くと何をやっているのか分からない。 この曲を練習された事のある方なら、心当たりがあるのではないかと思います。

今回は、筆者の演奏経験に基づいて、この曲における楽譜と自由の関係について考えていきます。

ベルガマスク組曲という作品

まずは簡単に作品の紹介から。「月の光」は単独の曲ではなく、ベルガマスク組曲の第3曲として書かれました。曲集は前奏曲、メヌエット、月の光、パスピエの四曲からなります。

面白いのは、その成立の経緯です。曲集が形になったのは1890年頃、ドビュッシーが二十代の終わりの時期でした。ところが出版されたのは1905年6月、フロモン社から。およそ十五年の開きがあります。

出版までには、作品の出版権の移動や出版社間の交渉がありました。ドビュッシーは出版に際して曲集を改訂し、校正刷りにも小節の削除などを書き込んでいます。また、校正刷りに「1890」と記し、若い時期の作品である事を示しました。「月の光」と「パスピエ」は、題名も以前のものから変更されています。

「月の光」自体は変ニ長調、8分の9拍子、Andante très expressif(アンダンテ、非常に表情豊かに)。中間部がより動きを持つ、三部形式の構成です。

「月の光」という題は、後から付いた

そして、題名を変更された曲のひとつが、この《月の光》です。元々の題は”Promenade sentimentale” 日本語で「感傷的な散歩」でした。今でこそ知られる月という印象的な名詞は出てきません。

以前テンペストの記事で、あの愛称がベートーヴェン自身の付けたものではない、という話を書きました。ただし、今回はそこに違いがあります。「月の光」は後世の第三者が付けた愛称ではなく、ドビュッシー自身が出版に関わった時点での正式な曲名です。題名が変わったからといって、月夜のイメージが音楽とは無関係だったとは言えません。それでも、私たちがこの曲を聴く時、その印象が月の光という言葉からも影響を受けている事は、考えてみてよいと思います。

ヴェルレーヌの月は、安らぎだけでは捉えきれない

では、その題は何と結びついているのでしょうか。

よく指摘されるのが、ヴェルレーヌの詩との関係です。

組曲名と第3曲の題名は、ポール・ヴェルレーヌの詩集『艶なる宴(Fêtes galantes)』に収められた《Clair de lune》を連想させます。両者の関連は広く論じられていますが、題名の由来として確定しているわけではありません。その詩の冒頭は、こう始まります。

Votre âme est un paysage choisi

Que vont charmant masques et bergamasques

あなたの魂は選び抜かれた風景

そこを仮面の人々とベルガモ風の踊り手たちが、魅了しながら進んでいく

「ベルガマスク」という組曲名と結びつけられるのが、この二行目の「masques et bergamasques」という言葉です。この詩で描かれているのは、単純に幸福な情景ではありません。そこにいるのは仮面をつけた人々で、彼らは歌い、踊っているのに、まるで自分たちの幸福を信じていないように見える。 そして降り注ぐ月の光は、悲しく、そして美しい。噴水は恍惚のあまりすすり泣く。

この詩の月光は、単純な安らぎだけでは捉えきれません。原文では、静かで、悲しく、そして美しい光として描かれています。私はそこに、華やかな宴の背後にある憂鬱を感じます。この詩を手がかりに曲を聴くと、「月の光」の穏やかな響きにも、少し違った陰影が見えてくるように思います。

そしてもう一つ。『艶なる宴』という詩集の題は、ヴァトーに代表される「雅宴画」の世界とも結びついています。以前取り上げた《喜びの島》も、ヴァトーの《シテール島への船出》との関連が語られてきた曲です。ドビュッシー自身も、後年の書簡でこの曲をその絵に喩えています。ただし、それだけで絵が直接の作曲のきっかけだったとまでは言えません。両曲を、ヴァトーやヴェルレーヌの描く宴の世界を手がかりに聴いてみる事はできるでしょう。

聴く側は酔っていい。弾く側は測っていないといけない

この曲を聴いていると、その響きに身を任せたくなります。聴く人は、その陶酔を楽しんでいい。それも、この曲の魅力を味わう聴き方の一つだと思います。

しかし弾く側は、そうはいきません。

料理に喩えると分かりやすいかもしれません。客は美味しく食べればいいのですが、作っている側は味を緻密に計算しないといけない。同じ料理を前にしていても、やっている事が違います。 弾き手は、聴き手と同じ耳で自分の演奏を聴くわけにはいかないのです。

何を基準に測るのかというのが一番大きな罠になります。陥りやすいのが、自分の気分を基準にしてしまう事です。気持ちよく感じたから良い、物足りないから足す。ところが気分は、その日の体調でも部屋の響きでも変わります。基準そのものが動いていたら、測定になりません。

楽譜は、到達点ではなく目盛りの基準

月の光ではありませんが、フランス人のマエストロとドビュッシーのチェロソナタを勉強した時は、まず練習の一段階として表情のための揺らし方をいったん控え、音価や拍の関係を確かめながら弾くことが、ドビュッシーを勉強する際は特に大事だと言われました。どの音をどれだけ保つのか、どこに拍があるのかを、一度はっきりさせておくのです。

一見すると、無味乾燥な作業に思えるかもしれません。しかし、これは「感情を込めるな」という意味ではありません。表情を消す事が目的なのではなく、何を基準に、どこを動かしているのかを知るための練習だと、私は考えています。実際に月の光にはTempo rubatoという指示もあります。

これはつまり、自分という秤の目盛りをゼロに合わせる作業です。

書かれた通りに一度弾いておくと、そこが基準になる。そこから自分がどれだけ伸ばしたのか、どれだけ強くしたのかが、初めて測れるようになります。逆に基準を持たずに揺らすと、揺らしているという自覚すら持てないまま揺れてしまう。 何をやっているか分からない演奏というのは、たいていこれです。

楽譜は到達点ではありません。目盛りの基準です。 目盛りを読めるようになった人だけが、そこからどれだけ外れるかを選べる。

僕自身も幼少期にこの曲を初めて聴いた時、なんだかふわふわした曲だという印象があり、弾いてみようとしたことがありました。しかし、無謀にも耳コピで弾いてみると、自分が何をやっているのか、どのタイミングで次の音に移るのかがよくわからなくなってきました。今思えば、当時は目盛りを合わせるという作業が全く行われていなかったから起きたものだと思います。

譜面のどこを確かめるのか

この曲を弾く時、特に確かめておきたいのは、次のような点です。

8分の9拍子という枠。 この曲は自由に漂う音楽のように聴こえますが、基本には付点四分音符を一拍とする三拍子の枠があります。15小節にはTempo rubatoと書かれています。だからこそ、まず拍と音価の関係を確かめておきたい。基準が分かって初めて、自分がどこをどれだけ揺らしているのかを捉えられます。

弱音を基調とした強弱の設計。 冒頭はppですが、41小節にはfも現れます。ずっと小さく弾く曲ではありません。弱音の中の変化をどう作り、どこで音を開き、どこで収めるのか。強弱記号を曲全体の流れの中で読む必要があります。

声部ごとの音の長さ。 旋律の下で、どの音がどこまで保たれるように書かれているのか。音価やタイを確かめると、動く音と残る音の関係が見えてきます。その区別を響きの中に残せているか、耳でも確かめたいところです。

ペダルに関する指示。 冒頭にはcon sordinaがあり、ピアノでは通常、ソフトペダルを用いる指示として読まれます。一方、右ペダルの細かな踏み替えは逐一指定されていません。和声の変化や声部のつながりを読み、楽器や部屋の響きに応じて、何を残し、何を濁らせないかを判断する必要があります。

作曲者の演奏を、どう読むか

ここで、当然の反論が出てきます。では作曲者自身はどう弾いていたのか。

実は、記録が残っています。1912年の夏、ドビュッシーはパリでヴェルテ・ミニョンのピアノロールに六本、十四曲を吹き込んでいます。《子供の領分》全曲、《スケッチ帳から》、《版画》の〈グラナダの夕べ〉、《レントより遅く》、《前奏曲集第1巻》から五曲。残念ながら《月の光》は入っていません。

その記録を楽譜と比べると、いくつもの違いが見つかります。《レントより遅く》では90小節から97小節が欠けていますし、《スケッチ帳から》の43小節にも音型の違いがあります。

ただし、こうした違いのすべてを、作曲者が意図した自由な表現と受け取る事はできません。表現上の選択なのか、弾き違いなのか、記録や再生の仕組みによるものなのか。個々の例について、慎重に考える必要があります。

ですから、「作曲者本人が楽譜と違う事をしているのだから、我々も自由でよい」と結論する事もできません。本人の演奏は貴重な手がかりですが、そこにある違いが何を意味するのかは、別に考えなければならないのです。

私がここから練習のために受け取りたいのは、自由の許可ではなく、違いを具体的に聴き取る姿勢です。どこが楽譜と違い、その違いによって何が起きているのか。自分の演奏についても、それを確かめられるようになっておきたいと思います。

残された物から手繰り寄せる

ここで参考になるのが、楽譜の校訂者による資料の扱いです。

たとえばヘンレ版では、「沈める寺」のピアノロールに聴かれるテンポの関係を、楽譜本文に追加せず、脚注で紹介しています。一方で、ピアノロールが、楽譜に記された音や音価の疑問を解く手がかりになる場合もあります。

つまり、資料の重みは、何を確かめたいのかによって変わります。作品の音符を確定したいのか、作曲者の演奏の仕方を知りたいのか。本人の演奏記録も一次資料になり得ますが、それを楽譜の校訂にどう用いるかは、別の判断なのです。

テンペストの記事で触れたシンドラーの証言についても、誰が、いつ、どのような状況で残したものなのかを確かめる必要がありました。楽譜も、演奏記録も、書簡も、それぞれに伝えてくれる事と、そこからは分からない事があります。

楽譜を大切にするのは、作曲家が偉いからではありません。残された資料の中でも、作品の形を具体的に確かめ、繰り返し立ち返るための中心的な手がかりになるからです。

まとめ

目盛りを合わせる作業は、感情を殺す作業ではありません。順番の話をしています。

先に測ってあるからこそ、本番で任せられる。基準が体の中に入っていれば、崩しても崩れない。酔えるようになる為に、一度冷静に測っておくという、それだけの事です。

「月の光」には、以前は別の題がありました。そして、題名との関連が指摘されるヴェルレーヌの詩には、静けさと悲しさと美しさが同居しています。そうした背景は、曲の聴こえ方を広げてくれます。ただ、実際にどう弾くかを考える時、私はまず楽譜に戻りたいと思います。そこに書かれた音の長さや強弱、速度の指示を確かめてから、自分の表現を考える。この曲を弾かれる方も、聴くだけの方も、一度譜面を眺めてみると、知っていたはずの曲が少し違って見えてくるかもしれません。

干梅 太郎

イタリア在住のピアニスト。クラシック音楽と、イタリアの古い服について書いています。
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