唐突ですが、僕は「丁寧な暮らし」という言葉が流行っていた頃から、こういう洗練されたライフスタイルを気取っていた人々が気に食わないとずっと思っています。
作家が作った一点ものの器に料理を盛り、無垢材のテーブルに季節の花を飾る。リネンやコットン、ウールなど天然繊維の服を着て、せいろで夕食のための野菜を蒸し、豆から厳選して、少し手間をかけて淹れたドリップコーヒーを飲む。洗面台には当然のようにAesopの茶色いボトルが置かれている。
こうして書き出してみると、随分と感じの良い暮らしですよね。きっと皆さんも、これらの言葉だけ聞くと、スタイリッシュで、品のいい雰囲気の人や暮らしを思い浮かべると思います。もちろん当たり前ですが、器が好きなら買えばいいし、コーヒーが好きなら豆に凝ればいい。植物のある部屋は実際に気持ちが良いかもしれません、Aesopの香りや使い心地が好きな人も当然いるでしょう。ただし、それらの要素のこと、本心から好きなんでしょうか?
ここで、僕自身の生活を振り返ってみます。普段から古い洋服や革靴を集め、万年筆で手記を書く。休日は蚤の市に赴き、主にクラシック音楽を中心にピアノを弾く毎日。この並びにアンティークの器や、美術館巡りでも加えれば、僕も「丁寧な暮らし」を実践する民とそれほど遠くないかもしれません。
それでも、ある特定の「丁寧的記号」が一式揃えられ、それらが複合した「丁寧な暮らし」という一つの生活様式として提示された瞬間、僕はどうしても気持ち悪さを覚えます。
今回は、僕の中で勝手にテンプレートの代表例としていつもイメージにある”Aesop”の茶色いボトルから始めて、その気持ち悪さが一体どこから来るのかを考えてみたいと思います。
先に書いておきますが、これはAesopを買う人を馬鹿にする為の記事ではありません。
Aesopを買うということ
Aesopはメルボルンで生まれたスキンケアブランドで、独特な店舗設計や控えめなパッケージによって知られています。2023年にはL’Oréalによる買収が完了し、今や世界的なラグジュアリーブランドの一つになりました。
とはいっても、この記事で買収によるブランドの変質や、商品の品質について論じたいわけではありません。そもそも僕はAesopのファンではありませんし、Aesopが巨大資本の傘下に入ったから悪いとも思いません。ぶっちゃけ、良い商品であれば誰が作っていようと使えば良いと思っています。
ただ僕が気に入らないのは、あの茶色いボトルが単なるハンドソープではなく、持ち主の人格まで表現する要素になりうることです。
香りが好きだから買う。使い心地が良いから買う。洗面台に置いた時の見た目が好きだから買う。そこまでは、ごく普通の商品選択だと思います。僕も、美味しいからとか、可愛いからという、とても個人的な理由で散財したりします。しかし、人間が物を買う際、いつの間にかそこへ「安さや便利さだけで物を選ばない自分」「日々の小さな時間を大切にする自分」「本当に心地よい物を知っている自分」といった意味が加わることがあります。一本のハンドソープを買ったはずが、気がつけば「日々の暮らしを大切にする人」「違いのわかる人間」という人格まで手に入っている。
もちろん、僕たちは誰でも持ち物によって自分を表現します。洋服などは、その最たる物ですよね。ドレスコードなんかも極論、どういった人間かを表すための規範とも言えるでしょう。つまり、物を通して自分を語ること自体がおかしいわけではありません。ただここでの問題は、Aesopに自分の人格を代弁させているのに、その人格を自分自身で見つけたものだと思い込めてしまうことです。
「多数派とは違う自分」は商品になる
「丁寧な暮らし」は、単なる生活上の癖として語られるだけではありません。そこにはしばしば、微妙な道徳性の介在を感じます。
現代の大量消費に流されず、流行ではなく自分の感性で物を選び、多少高くても長く使える良い物を買う。自分の心身を労り、季節の変化を感じながら暮らす。
どれも言葉だけを見ればいいものばかりです。ただ、それらは「安い物を次々と買い、便利さだけを求め、食事を適当に済ませ、自分の身体にも周囲の環境にも無頓着な人々」と比較されるからこそ存在する概念だともいえます。
つまり「丁寧な暮らし」を選ぶことは、知らないうちに「自分はそういう人々とは違う」と確認する行為にもなります。ここで消費されているのは商品だけではありません。「自分は多数派とは違う」という感覚まで、商品と一緒に買うことが出来るのです。残念ながら、人は常に「他人より秀でたい」と言う欲望に多かれ少なかれ蝕まれています。
マクラーレンなどの高級車やロレックスなどの高級時計で、これみよがしに財力を誇示する優越感はまだ分かりやすいと思います。本人にも周囲にも、何をしているのかが見えやすいからです。しかし、「丁寧な暮らし」に含まれる優越感はもっと気持ちの悪い物です。
「別に人より優れていると思っているわけではない。誇示したいわけでもない。ただ、自分の人生にとって心地よい物を選んでいるだけ」
そんな無垢な顔をしながら、実際には大量消費をする人、流行に乗る人、暮らしに手間をかけない人との差を確認している。優越感に浸っていること以上に、その優越感を自分自身の感性だと思えてしまう所に、僕が昔から感じていた気持ち悪さがあるのだと感じています。
丁寧な暮らしを実践するために、実際に社会の中で少数派になる必要は全くありません。ニトリの大量生産された器ではなく作家物の味わい深い漆器、サイゼリアや大戸屋といったチェーン店ではなく、昔ながらの個人店、スーパーで買ったワインではなく、葡萄農家が作るナチュラルワイン、化学繊維ではなくリネン、マツキヨで買ったハンドソープではなくAesop。市場が用意した「少数派らしさ」の記号を選べば、多数派の消費社会に留まったまま、自分だけはそこから距離を置いているような気分になれます。
反消費的であるという感覚さえ、一種のパッケージ商品として消費されているわけですね。
自分らしく生きている人たちは、なぜこうも似ているのか
そして、もう一つ不思議なことがあります。「他人に流されず、自分らしく生きる」為に選ばれる物が、あまりにも似通っていることです。
Aesop、作家物の器、リネン、無垢材、観葉植物、せいろ、スペシャルティコーヒー、北欧家具、ヨガ、ピラティス、オーガニック食品、ナチュラルワイン。一つ一つは異なる文化から生まれた物ですが、現代の市場では見事に一つの世界観として統合されています。
店も違えば作り手も違う。それなのに、それを選ぶ人間の部屋と服装と休日の過ごし方は、一冊のカタログの中に綺麗に収まる。そして、同じ物差しで測るから、自然と見た目もテンプレのように似通ってきます。
冷静に考えると、なぜ「自分らしく生きている」はずの人々が、皆似た物を所有していて、似たようなライフスタイルを送っているのか疑問ですよね。
ただ、答えは案外シンプルで、「自分らしさ」そのものが、すでに市場によって既製品として用意されているからだと思います。
僕たちは物を買うとき、単体の商品のみを購入しているだけではありません。その商品が置かれる部屋、その商品を使う朝の時間、そしてその商品を選ぶ人間の仕事観や価値観までを含めた「自分自身の世界観」を買っているのです。そこに、あらかじめ市場に用意された「丁寧さ」という記号を集めれば、自分が何を好きなのか、どのように生きたいのか?などを一から考えなくても、矛盾のない一人の人間が出来上がる。
しかもありがたいことに、その既製品には「自分らしさ」というみんなが欲しがりそうな名前が付いています。
クラシックな洋服を着る僕は何が違うのか
さて、ここまでAesopや「丁寧な暮らし」について書いてきましたが、僕自身もまったく安全ではありません。
このブログでは、仕立ての技術が施された古い服、革靴、ヴィンテージ、クラシック音楽、歴史や文化について頻繁に書いています。これらもまた、非常に人格へ変換しやすい趣味だと思います。
「ファストファッションではなく、長く使える物を選ぶ」
「流行ではなく、歴史に残ってきた普遍的な物を選ぶ」
「大量生産品ではなく、職人の仕事を理解する」
「表面的なブランド名ではなく、本質的な価値を見抜く」
こうしたことは、このブログでも何度となく書いてきました。そして、今でもある程度は正しいと思っています。例えば古いBrioniのジャケットと、形だけを真似たファストファッションブランドの安いジャケットでは、実際に仕立ても生地も違います。Aesopの香りとドラッグストアの石鹸にも、それぞれ物としての違いは確実にあるでしょう。
ただ気をつけなければならないのが、物そのものの品質が高ければ、それを所有する人間の自己認識まで正しくなるわけではないと言うことです。
Brioniがどれほど良い服であったとしても、それを理解しているというだけで僕の人格までもが優れた物になるわけではない。それでも僕は、古い仕立てを見分けられることや、安く掘り出した服の価値が後から分かることに、少なからず喜びの感情を抱きます。そう考えると、全て純粋な「服への愛」と言い切るのは、少し都合が良すぎる気がしないでもありません。
自分に対して少し嫌な言い方をすれば、単純に良い物、あるいは「良いとされるもの」を身につける優越感を「審美眼」や「文化への理解」と呼び替えているだけなのかも知れません。
冒頭でも述べましたが、この記事を「Aesopは浅いが、Brioniは本物だ」なんという結論にすることは最初から考えていません。それは単純に自分の所属している消費文化を上に置いているだけです。Aesopを使う人と革靴を履く僕の間に、物の違いはあっても、構造上の違いはないのだと思います。だいたい、僕がAesopを使わないだけで、Brioniを着てAesopを使う人だって沢山いるはずです。結局ここで名前が上がっているのは比喩でしかありません。
「本当に好き」かどうかの難しさ
では、自分が本当に好きな物だけを選べば良いのか?というと、それも難しいと思います。と言うのも、僕たちの趣味趣向は、最初から自分の中に完成した形で存在しているわけではないと思うからです。家族や友人、雑誌、映画、SNS、店員の言葉、憧れていた誰か。様々な物から影響を受けながら、何を美しいと思うかは作られていきます。
例えば、僕がBrioniが好きだとするのならば、それは服そのものが美しいからなのか、あるいは歴史あるローマのブランドだからなのか。もっと下品な言い方をすれば、高価な服を安く見つけたことが嬉しいのか、はたまたそれを理解出来る人間であることが好きなのか。バランスは色々とおそらくその全てが混ざっています。Aesopについても同じで、香りが好きな気持ちと、Aesopを選ぶ自分が好きな気持ちを完全に切り分けることは出来ません。
何を選ぶにしてもこうした葛藤はあると思います。誰でも自分を表現したいという欲求はありますし、自分の好きな物によって自分を語りたくなるのも自然なことです。
ただ、その区別について考えることをやめ、脳死で「これは自分自身の感性が選んだ物だ」という結論まで商品と一緒に買ってしまうとどうでしょうか?
例えば「ワイドパンツが流行りすぎているから、通はスキニーパンツを好む?」といったような雑誌の記事を見かけたとしましょう。それをみたあなたが、通になりたいが故にスキニーパンツを買って「ワイはみんなと似たようなワイドパンツは履かんのや!」なんて言い出したらどうでしょうか?あなたは周りと違うことをしているかもしれませんが、それは自分の感性でスキニーパンツを選んだとは言えませんよね?
もちろん、自分の選択を常に疑っていれば、それで全てが正しいことになるわけでもありません。「僕は消費という行為にしっかり向き合っているから、それに無頓着な人々とは違う」と考えた瞬間に、また同じような優越感のループが始まります。正直な所、この問題には綺麗な解決策がないのかもしれません。
ただ、自分の欲望がどこから来たのかを完全に解明出来なくても、分からないまま考え続けることは出来ます。少なくとも、自分の持ち物に自分の人格を保証してもらわないことは出来るはずです。
「丁寧な暮らし」の民はセルフケアに夢中
2026年の今、「丁寧な暮らし」という言葉自体には以前ほどの新鮮さがありません。正直この概念も定着しすぎて古い気がします。僕の他にこれらを嘲笑している人がいて、それによって辞めてしまった人がいてもおかしくないかと思います。
しかし、その本質的な価値観が消えたわけではありません。
「ご自愛」「整える」「セルフケア」「ウェルビーイング」「無理をしない」「自分を大切にする」「心地よい物だけを選ぶ」
この、「少し人と違う」という名前の既製品は、言葉をコロコロと変えながら、むしろ以前よりも人間の内面深くへ入り込んでいます。
昔の広告は、もう少し単純でした。LEONではありませんが「これを持てば若い女の子にモテる」「これを買えば試験で成功出来る」「これを使えば人生豊かになれる」。欲望が露骨で下品な分、広告として見分けやすかったと思います。
一方現在の商品は、もっと優しく強かな言葉で語りかけてくる印象があります。
「これは、あなた自身を大切にする為の選択です」
「他人の目ではなく、自分の心地よさを選びましょう」
「あなたらしく、無理のない毎日を」
何も押し付けていないように見えるこのフレーズ。むしろ社会の規範から僕たちを解放し、自由にしてくれる言葉に見えます。ただ、その裏では「自分を大切にしている人なら、こうする」という「新しい理想像」が作られています。
健康的な食事をして、適度に運動し、良い睡眠を取り、部屋を整え、植物を育て、香りを楽しむ。必要であればヨガやピラティスに通い、オーガニック食品を選び、肌と心を労る。
これら全てが役に立たない詐欺商品だとも言いませんし、だいたい健康的な生活を否定したいわけではありません。ここで問題にしたいのは、それが自分自身に必要なものを吟味した結果として選ばれているのか、それとも「自分を大切にしている人間」になる為に選ばれているのかということです。
「自分らしくあれ」という命令は、「ちゃんと働け」や「成功しろ」というわかりやすいものと違って、自由を勝ち取るための言葉で語られます。なので、それが命令であること自体が見えにくい。そして自分らしく生きられていない人、自分を大切に出来ていない人という新しい劣等感を生み、その解決策として、また商品やサービスが用意される。新しい劣等感が生み出され続ける負のサイクルに陥るわけです。そこに一歩踏み入れてしまうと、「自分らしさ」の市場から離れられなくなるわけです。
マクドナルドを食べる方が、自分らしいのか
例えば、本当はマクドナルドのようないわゆるジャンクフードに、酒やタバコが大好きな人がいるとします。
健康の事だけを考えれば、野菜を多く食べ、酒を控え、タバコを吸わず、規則正しく暮らす方が良いでしょう。僕は別に「好きなら好きなだけガバガバ吸って、揚げ物を食べて、とにかくビールを飲みまくることこそが、欲望の開放で、本当の自分らしさだ」などと、馬鹿げたことを言いたいわけではありません。
ただ、本当はマクドナルドが大好きなのに、「自分を大切にする人間」でありたいから、好きでもないシリアルだけを食べているとしたらどうでしょうか。それは果たして、本当に自分自身そのものを大切にしていると言えるのでしょうか?
こういった場合個人的にはまず「自分はマクドナルドが好きだ」と素直に認めた方が良いと思います。その上で、毎日食べれば身体に悪いし、実際に体調も崩す。変に金もかかる。週に一度だけ楽しむ。そう判断する方が、少なくとも自分自身とは正直に向き合っているのではないでしょうか?
欲望にそのまま従うことが正義というわけではありません。自分が何を欲しているのかを把握する。その上で自分の欲望をどう扱うか決める。この基本的な順序を忘れないことこそが、本当の自分らしさを追求する上で大切なのだと思います。
ところが、現在のセルフケア市場では順序が逆になりがちです。自分が何を心地良いと感じるかを知る前に「心地良い暮らしとは何か」と言うことがすでにテンプレートのように決められており、自分が本当に何を必要としているかを考える前に「自分を大切にする方法」が綺麗な箱に入れて並べられる。そういった情報に晒され続けると、さもその通りに生活することこそ、真の自分への理解につながるのだと、しばしば錯覚してしまいます。
しかし「自分を大切にする」為には、その対象である自分が果たして何者なのかをある程度は知らなければなりません。
シンプルに言えば何が好きで、何が嫌いなのか。何をするとその瞬間は気持ち良く、後で後悔するのか。何を本当は嫌いなのに、「良い物だから」「健康的だから」「文化的だから」という理由だけで選んでいるのか。
それを飛ばして、市場が提示する「自分を大切にする方法」に従うのであれば、それはセルフケアというより、自己理解のプロセスを外注しているだけではないでしょうか。
人間はトータルブランドではない
人間が人間であり続ける以上、自分らしさとは、本来、一貫した世界観ではないのだと思います。
Brioniを着てビッグマックを倍マックにして食べても良い。クラシック音楽を弾いて、くだらないゲームをしても良い。健康に気をつけながら、時には体に悪い物を楽しんでも良い。古い職人仕事に感動しながら、100均の大量生産された安物を便利に使うこともあります。
人間であれば、それくらい矛盾していて当然です。
むしろ、そうした矛盾を消して、自分の持ち物、服装、食事、部屋、休日の過ごし方を一つの美しい物語にまとめようとした時、自分自身が一つのブランドになってしまうのかも知れません。
ブランドには一貫した世界観が必要です。Aesopの店舗に突然、赤色など原色のプラスチック製品が並べば、多くの人は困惑し、違和感を覚えるでしょう。
しかし、人間はAesopではありません。
昨日まで好きだった物を突然嫌いになっても良いし、自分の美意識に反する物をなぜか気に入っても良い。完璧ではなく、誰かに見せるには少し都合の悪い趣味があったって良い。そういった不整合を含めて、自分であるはずです。
「自分を大切にする」とは、「自分を大切にしている人が選びそうな物」を選ぶことではないと感じます。まず、自分が本当に何が欲しいか、何を嫌い、何を心地良いと思うのかを知ることが大切です。そしてその欲望を無条件に肯定するのではなく、かといって無条件に否定するのも違います。
そこには完成された世界観も、分かりやすい正解もありません。ただ、少なくとも商品を買う時に、「僕はこういう人間だ」という結論まで一緒に買わないこと。物に宿る自分らしさとは、何を買うかと言う選択によって完成するものではなく、好きで買った物さえ後から後悔したり、あるいはそんなに期待していなかったけれど案外好きになったりと、後から勝手に残っていく物なのだと思います。
少なくとも、「自分らしく生きる為のおすすめ商品」という意味のわからない宣伝文句と共に商品が売られているうちは、自分らしさとは何かを少し疑った方が良いのかも知れません。






