ピアノを弾いていて、譜読みが遅いという事に悩まれた経験のある方は多いのではないでしょうか。
新しい曲をもらってから、なかなか形にならない。音は取れたはずなのに、いつまで経っても弾けている気がしない。周りの人はもっと早く仕上げている様に見える。
以前、暗譜についての記事の中で、暗譜が苦手だと感じているのであれば見直すべきなのは暗譜の練習法ではなく譜読みのやり方の方だ、という事を書きました。今回はその続きとして、譜読みという作業の中身そのものについて、僕自身が実際にやっている事を書いてみたいと思います。
譜読みという作業を一言で言うなら
先に、この記事を通して使う言葉を一つ立てておきます。”開拓”です。
譜読みというのは、音を指に入れる作業ではなく、まだ誰も通っていない所に自分の道を通す作業だと僕は考えています。その曲がどういう地形をしているのかを確かめながら、自分はどこを通るのかを一つずつ決めていく。決めた道が後の全てを規定するので、譜読みの段階で決めた事は、最後まで付いて回ります。
この定義を採ると、譜読みという言葉が指す範囲はかなり広くなります。そして範囲が広い分だけ、終わりの位置も変わってきます。
譜読みが終わるのはいつか
まず結論から書きます。僕にとって譜読みが終わったと言えるのは、全部通して、テンポで弾けた時です。
音が取れた時点ではありません。片手ずつさらえた時点でもありませんし、部分ごとに弾ける様になった時点でもありません。最初から最後まで、決められたテンポで一度通せた瞬間が終わりです。
この基準はかなり厳しく感じられるかもしれませんが、こう置く事にはもう一つ意味があります。前回の記事に書いた通り、僕は暗譜という作業を独立した工程として意識した事がほとんどありません。それは当然の事で、全部通してテンポで弾けている状態というのは、既に覚えてしまっている状態だからです。楽譜を見ながらであっても、その速さで最後まで行けているという事は、次に何が来るかを分かっているという事に他なりません。
つまり、譜読みの終わりを「音が取れた時」に置いている限り、暗譜は必ず別工程になります。逆に「テンポで通せた時」に置けば、暗譜は工程ではなく結果になります。譜読みが遅いという悩みと、暗譜が苦手という悩みが、実は同じ場所から来ているというのはこういう事です。
最初の一週間にやっているのは、運指を決める事
では実際に何をしているのかというと、新しい曲をもらってからの最初の一週間、僕がやっているのはほとんど指番号を決める作業です。
意外に思われるかもしれません。譜読みというと音を覚える作業だと思われがちですが、実際に時間を使っているのは、どの音をどの指で弾くかを一つずつ決めていく作業の方です。
運指を決めるというのは、そのまま道を通す作業です。同じ音の並びでも、どの指で入るかによって、その後に手がどこへ行けるかが変わります。先の展開を見ずに目の前の音だけで指を決めていくと、数小節先で必ず行き詰まります。ですから運指を決める作業は、必然的に曲の先を読む作業になります。
そしてこの段階では、難しいパッセージを磨き上げる事は一切やりません。全部後回しにします。
これは面倒だから後にしているのではなく、道を開拓する事と、その道をどうやって楽に歩くかを突き詰める事が、そもそも別の作業だからです。まだどこを通るかも決まっていない場所で、歩き方の効率を考えても意味がありません。逆に、道さえ通っていれば、歩き方はいくらでも後から直せます。この二つを同時にやろうとすると、どちらも中途半端になります。
知らない曲であれば、まず聴いてみる
その前段として、知らない曲の場合はまず聴いてみます。
前回の記事で、聴覚記憶を育てる為にいろんな人の演奏で同じ曲を聴くという話を書きましたが、譜読みの入り口としても同じ事が言えます。地形を全く知らないまま歩き出すより、一度上から眺めておいた方が早い。特に構造の大きな曲では、どこが山でどこが谷なのかを知っているかどうかで、運指を決める時の判断が変わってきます。
ただし、ここには注意も要ります。聴く事は地形の把握には役立ちますが、同時に完成形の刷り込みにもなり得るからです。しかも、その演奏が楽譜通りに弾かれているとは限りませんし、当然そこには演奏者本人の解釈も含まれています。それを基準にして譜読みを始めてしまうと、楽譜から出発しているつもりで、実際には他人の演奏から出発している事になります。
ですから聴く時はあくまでフラットに、そして前回の記事に書いた通り、一人の演奏ではなくいろんな人の演奏で聴く事が大切になります。地形を知る為に聴くのであって、出来上がりの音を覚える為に聴くのではない、という区別は必要だと思います。
左から、書いてある通りに読む
間違った音で覚えてしまわない為にやっている事は、実はそれほど複雑ではありません。
一つは、基本を忘れないという事です。当たり前の事を当たり前にやる。楽譜を左から、書かれている通りに読んでいく。これに尽きます。
譜読みが雑になる時というのは、大抵この順番が崩れています。目立つ音や覚えやすい形から先に拾ってしまったり、和音を縦に掴んでから細部は後で確認しようとしたり、記号を飛ばして音符だけを追ったり。一度そうやって入れてしまうと、後から修正するのは非常に手間が掛かります。前回書いた通り、間違った音は指だけでなく耳にも入ってしまうからです。
もう一つは、耳のセンサーを働かせておく事です。弾きながら、些細な違和感を感知する状態を保っておく。何かが少し変だと感じた時に、その場で楽譜に戻って確認する。この些細な違和感を無視して先に進んでしまうと、そのまま定着します。
譜読みの段階で耳を使うというのは、単に音程を確かめるという意味ではなく、この違和感センサーを常時起動させておくという意味だと僕は考えています。
譜読みが遅い人は、完成形を思い浮かべすぎている
譜読みが遅いと感じている方を見ていて共通しているのは、全部をいっぺんにやろうとしすぎているという事です。音を取りながら、同時に強弱もつけようとして、ペダルも入れようとして、テンポも保とうとする。要するに、最初から完成形を思い浮かべすぎているのです。
気持ちは分かります。頭の中に完成した演奏のイメージがあるので、そこに近づけようとして全部を一度にやろうとしてしまう。ですが、譜読みの段階でやるべきなのはその逆で、一度分解する事です。
まず音形を一つずつ把握する。この小節はどういう形をしているのか、どの音からどの音へ動いているのか。そうやって分解していくと、あるところで気付きます。曲というのは、同じ音形を何度も使っているのです。
同じ形が姿を変えて何度も出てきます。移高されていたり、裏返しになっていたり、リズムが変わっていたりしますが、元は同じ形である事が非常に多い。一度その形を把握してしまえば、次に出てきた時には既に知っている形として処理出来ます。ですから、分解して進めていくと、曲の後ろの方が譜読みが速くなるという現象が起きます。
開拓に喩えるなら、これは同じ地形が繰り返し現れている事に気付くという話です。一度通した道と同じ形の斜面が先にもあると分かっていれば、二度目は測量から始める必要がありません。完成形を眺めているだけでは、そもそも斜面が三つある事にすら気付けません。どの箇所も初めて見る新しい風景として処理する事になるので、最後まで同じ速度でしんどいままです。
初見と譜読みは、全く違う頭の使い方をしている
もう一つ、譜読みと混同されがちなものに初見があります。
正直に書きますが、僕は初見はどちらかというと苦手です。ブルグミュラーやソナチネアルバム程度であれば初見で弾けますが、それは要するに、その曲の要求する技術を自分の技術が大きく上回っているというだけの事です。初見が完璧に出来るというのは多くの場合、テクニックが譜面を圧倒的に凌駕している状態を指しています。
そしてもう一つ、全く別の種類の初見があります。コレペティトゥア、つまりオペラの稽古でピアノを弾く人達などの初見です。これは僕自身の経験ではなく、その世界の方から聞いた話になりますが、彼らは複雑な伴奏譜あるいはオーケストラのスコアそのものを眺めながら、その場で弾いてしまう。ただしあれは全部の音を弾いているのではなく、どの音を拾えば骨格が立つのかという判断が、異常に速いのだそうです。捨てる音を瞬時に決めている。これは技術というより、別種の能力なのだと思います。
対して、ソロで弾く人間の頭は逆方向に訓練されています。最終的な完全体を作る事を前提に譜面を見るので、捨てるという発想がそもそも入ってきません。全部の音に責任を持つ意識が働いてしまうので、即効性のある弾き方が出来ない。僕が初見を苦手だと感じるのは、この意識の差によるところが大きいと思っています。
面白いのは、これが先程の「完成形を思い浮かべすぎる」という話と同じ根を持っている事です。完成形を意識してしまうという性質は、初見の場面では明確な弱点になりますが、一曲を作り込んでいく場面では長所として働きます。同じ楽器を弾いていても、全く違う頭の使い方をしているという事なのだと思います。
ですから、初見が苦手だから譜読みが遅い、という因果関係は必ずしも成立しません。この二つは別の能力です。譜読みが遅いと感じていらっしゃるのであれば、初見の練習をするよりも、分解する習慣をつける方がはるかに近道だと思います。
譜読みが終わってからが、練習の始まりである
最後に一つ、誤解のない様に書いておきたい事があります。
ここまで譜読みの終わりについて書いてきましたが、譜読みが終わったからといって、その曲が仕上がった訳ではありません。むしろ逆で、テンポで通せた所からが練習の始まりです。
そして面白い事に、そこで最初にやるのは、またゆっくり弾く事なのです。
道が通った状態から、今度はもう一度速度を落として、歩き方そのものを直していきます。無駄な力が入っている所、遠回りしている所、たまたま上手くいっているだけで再現性のない所。開拓の段階では気付けなかった事が、道が通った後には見える様になっています。後回しにしていた難所のポリッシュも、この段階でようやく取り掛かる事が出来ます。
開拓と、歩き方の矯正。この二つを分けて考えられる様になると、練習全体の見通しがかなり良くなると思います。譜読みが遅いという悩みの多くは、実はこの二つを同時にやろうとしている事から来ているのではないでしょうか。
まとめ
如何でしたでしょうか。今回は譜読みという作業について、僕が実際にやっている事を書いてみました。譜読みの終わりを「音が取れた時」ではなく「テンポで通せた時」に置き直してみる事、最初の一週間を運指に使う事、そして完成形をいったん脇に置いて分解する事。この三つが、僕が普段やっている事のほとんどです。同じ音形の繰り返しに気付き始めると、曲の後ろの方ほど楽になっていく感覚が出てくると思いますので、もし今譜読みで詰まっていらっしゃる方がいれば、一度分解する所から試してみて頂けますと幸いです。次回は、譜読みの後に始まるゆっくり練習の方について書いてみたいと思います。



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