重みのある軽さと甘さの関係|ブラームス「間奏曲 Op.118-2」に見る年月と純粋な甘さに関する解釈

ブラームスの《間奏曲 イ長調 作品118の2》。この曲について検索すると、「クララ・シューマンへの秘められたラブレター」というような説明が、たくさん出てきます。確かに後期の小品の中でも特にロマンティックで、実際、聴いていると胸が詰まるような曲です。

ところが、いざそのつもりで弾こうとすると、この曲は途端におかしなことになってしまいます。

感情を込めれば込めるほど重たくなり、歌えば歌うほど安っぽくなる。指は全部届いているのに、何かが決定的に違う。この曲を練習されたことのある方なら、心当たりがあるのではないでしょうか。

しかも、楽譜にはちゃんと「甘く」と書いてあるんですよね。それは分かっている。分かっているのに、「じゃあ甘く弾こう」とすると、なんだか違う。

今回は、僕自身の演奏経験から、この曲の甘さと軽さについて考えてみたいと思います。

「六つの小品」作品118という曲集

まず、この曲は《六つの小品》作品118の第2曲です。曲集は1893年の夏、バート・イシュルでの滞在中に書かれ、クララ・シューマンに献呈されています。作品116から119にかけての、ブラームス最後のピアノ独奏曲群に属します。

題は「間奏曲(Intermezzo)」。文字どおりなら、間に挟まる曲という意味です。ただ、この時代には独立した小品の題としても使われているので、「間奏曲だから前後の曲がないと成立しない」というわけではありません。

それでも、僕はこの曲を考える時、作品118という曲集の中にあることを、やはり意識します。

大学の卒業試験では、六曲を全曲通して弾きました。だからということもあるのでしょうが、第2曲だけで全部を語り切ろうとしなくてもいいのではないか、と思うんです。前後にも音楽がある。その中で、この曲が何をしているのか。単独で弾く時にも、そういう視点は持っておきたいと思っています。

「ラブレター」という読み方について

さて、冒頭のラブレター説です。ブラームスがシューマン家を訪ねたのは1853年、二十歳の時でした。この曲が書かれたのは1893年。約四十年が経っています。

四十年。

さらっと書いてしまいますが、相当な時間です。その間にあったことを全部ひっくるめて、「好きです」という分かりやすい表情だけで弾いていいのだろうか。僕は、そこがどうしても引っかかります。

別に、長く付き合ったら恋ではなくなる、という話ではありません。ただ、四十年もあれば、同じ「好き」でも、その中身はそんなに単純ではないだろうと思うんです。

もちろん「だからブラームスはこう感じていた」というところまでは分かりません。それに、本当に二人の間に何があったかを詮索するのはもはや野暮だと思います。

以前「テンペスト」や「月の光」の記事で、残された資料から手繰り寄せるという話を書きました。楽譜は読める。残された手紙も読める。ただ、そこから人の心を全部分かったつもりになるのは、やはり危ういと思います。

なので、ここから書くのは、ブラームスの心の答え合わせではありません。僕がこの曲を弾く時に、どういうものを思い浮かべているか、という話です。

四十年の重みが、ふと軽さに変わる

人間関係の色んな場面で感じることでもありますが、複雑な感情って、表面には案外シンプルに出てくることがありますよね。

言いたいことは山ほどあるはずなのに、結局、一言で済んでしまう。あるいは、特に何も言わない。それでも、何もないわけではない。

僕には、この曲にもそういうところがあるように聴こえます。

四十年分を全部引っ張り出して、一つずつ感情を込めていくのではない。色々なものが積み重なって、混ざって、沈むものが沈んで、表面には静かなものだけが残っている。

随分勝手なイメージですが、僕はそう考えると、この曲の弾き方が少し見えてくる気がします。

重たく弾くと違うのは、感情が薄いからではありません。重みはあるのに、出てくる音は軽い。 そこが、この曲の難しいところなのだと思います。

「Dolce」と書いてある。では、どう甘く弾くのか

冒頭には、Andante teneramente。優しく、愛情を込めて。曲中にはdolce、いわば『甘く』という指示もあります。

だからこそ、一言で「この曲は甘く弾いてはいけません」と言いたいわけではありません。ただ、そこで「なるほど、じゃあ甘くするか」と済ませると、どうもおかしなことになる。

その甘さって、どういう甘さなんでしょうか。

出会って間もない頃の、何をしていても相手が気になるような甘さもあるでしょうし、長い時間を一緒に過ごして、今さら大げさに言わなくても伝わるような甘さもあると思います。同じ言葉でも、出てくる音は随分違うはずです。

四十年という時間を考えた時、僕はこの曲で、一つひとつの音に「ほら、こんなに気持ちがこもっています」ということはしたくないと思います。

ただ、実際に弾くと、ついやってしまう。少し待って、少し膨らませて、大事な音だからもう少し歌って。そうしているうちに、どこもかしこも意味ありげになって、流れが重たくなる。

甘く弾いているつもりなのに、なんだか野暮ったい。僕が避けたいのは、たぶん、この甘さをいちいち説明してしまう感じなのだと思います。

軽いのに、じんわりと芯がある

この曲を一言で言うなら、軽いけれど芯がある、という感じです。

ただし、この軽さは、空っぽの軽さではありません。沈むものが全部沈んだ後に残る、上澄みのような軽さです。沈んだものがあるから、軽い。

だから、ただ音を薄くしても違います。さらっと弾けばいいのかというと、それも違う。ちゃんと響きの中に重みがあるのに、それを押し付けてこない。そういうところを目指したいんです。

重くしすぎない。甘さを盛りすぎない。しかし、薄くもしない。

注文が多いですね。

僕が「何も足さずに弾きたい」と言いたくなるのは、そういうことです。もちろん、強弱も付けるし、楽譜に書かれたテンポの変化もあります。それを全部なくして、平らに弾こうという話ではありません。

ただ、書かれていることを弾いた後に、まだ「自分の気持ち」を足さなくてはいけないのか。そこは一度、疑ってみたいと思っています。

中間部では、声部が追いかけ合う

少しだけ技術的な話に入ります。

中間部は嬰ヘ短調で始まり、声部が旋律を追いかけ合う、カノン的な書法で進みます。途中には嬰ヘ長調のコラール風の箇所も出てきますが、そこでも声部同士の模倣は続いています。

つまり、あれだけ情緒的に響くところが、随分緻密に作られているんです。

一つのメロディがあって、あとは伴奏、というだけではありません。それぞれの声に流れがあり、別の声を追いかけたり、受け取ったりしている。

ここを僕が変に歌おうとすると、大抵、その関係が崩れます。一つの声に気を取られて、別の声が聞こえなくなる。あるいは、全部まとめて情緒的に弾いた結果、ただの和音の塊になってしまう。

逆に、それぞれの声をきちんと聴いて弾くと、こちらが何かを付け足そうとしなくても、表情が出てくることがあります。

この場面では、甘さは、そういう音の関係から生まれるものでもあるのだと思います。

ただ、これがまた厄介で、音を間違えずに弾けば済むわけではありません。声部ごとの音量や音質を少し変えるだけで、聴こえ方はまるで変わります。どの声をどのくらい出すのか。受け取った声を、どう続けるのか。結局、本当の表情は、そういう細かいところにあるのだと思います。

弾けるようになっても、永遠に難しい

正直に書くと、僕にとってこの曲は、音を取る段階よりも、その後の方がずっと難しい曲です。

もちろん、技術的に簡単だと言い切るつもりはありません。声部を弾き分けることも、中間部の二対三のリズムを保ちながら歌うことも、それ自体が技術です。指が届いているから出来ている、とは限りません。

ただ、それがある程度出来るようになってからも、まだ「なんか違う」が残るんですよね。

音が足りない気がして、少し歌う。物足りない気がして、少しテンポを揺らす。気持ちを込めた方がいい気がして、重心を落とす。そうやって足していった結果、あの上澄みが濁ります。

かといって、全部やめればいいわけでもない。この音はもう少し欲しい。でも、こっちは出しすぎ。そういうことを、延々と考えています。

実際、僕も何度も弾き直しますが、そのたびに「あれ? なんでこんなところを無駄に強調していたんだろう」と思うことがあります。その時は、それが必要だと思っていたはずなのに。

これは、たぶん永遠に問い続ける問題なのだと思います。今の自分に聴こえているものを、出来るだけ余計な力を入れずに出したい。その加減が、何度弾いても難しいです。

まとめ

僕がこの曲を初めて弾いたのは大学四年の頃、卒業試験のプログラムの一つとしてでした。作品118を全曲通して弾きましたが、今思えば、なんであんな弾き方をしていたんだろうと思うところもあります。

そもそも二十代の今考える「四十年」と、例えば将来四十代になった頃に考える「四十年」では、随分違うような気がします。

だから若いうちは弾けない、ということではありません。それでも弾くしかありませんし、弾いた上で足りなかったと分かることが、たぶん次につながるのだと思います。

実際、あの頃、分からないなりに一生懸命考えたからこそ、今はまた違った視点から同じ曲を見られる。二十年後には、おそらくさらに違うことを言っているでしょう。今の演奏を聴いて、「なんでここをこんなに強調したんだろう」と、また思うのかもしれません。

幾つになっても、そうやって積み重ねていけることが、ピアノを弾く楽しさなのだと思います。

楽譜には「甘く」と書いてある。それは分かっている。でも、四十年です。その時間を思うと、僕はやっぱり、分かりやすく甘く歌って終わり、とはしたくないんです。

重みはある。でも、重たくはない。甘い。でも、こちらに迫ってこない。今は、この曲をそんなふうに弾けたらと思っています。

干梅 太郎

イタリア在住のピアニスト。クラシック音楽と、イタリアの古い服について書いています。
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