記憶のない懐かしさについて | ラヴェル「亡き王女のためのパヴァーヌ」に関する解説

ピアニストの端くれとして、クラシック音楽は全般的に親しんできたつもりですが、その中でもラヴェルは特に好きな作曲家の一人です。ただ、なんとなく自分がラヴェルを弾いている姿が想像できず、なかなか着手できないというジレンマを抱えてもいます。そんな中、今回紹介する亡き王女のためのパヴァーヌは、ラヴェルの中でも特に親しまれている作品であり、僕自身も遊びでよく弾く曲の一つです。

亡き王女のためのパヴァーヌ

亡き王女のためのパヴァーヌはフランスの作曲家ラヴェルによって1899年に作曲されたピアノ独奏作品です。1910年には「オーケストラの魔術師」とも称された彼自身によってオーケストラ編曲版も発表されています。

ベラスケス作 王女マルガリータの肖像
ディエゴ ベラスケス “王女マルガリータの肖像” 1654年頃 油彩,キャンバス

日本語では亡き王女というタイトルから、何かを追悼するための曲としばしば誤認されがちですが、原語のPavane pour une infante défunteという題はラヴェル自身が”語呂が美しいから選んだ”というなんとも言えない名付け理由があります。また真偽は不明ですが、ラヴェルがルーブル美術館でベラスケスの「マルガリータ王女」の絵からインスピレーションを受けたといった逸話もあります。つまり、この作品は実際に亡くなったスペインの王女に対する追悼ではなく、昔のスペインの小さな王女が踊ったようなパヴァーヌを想像して作られた作品なのです。ちなみにパヴァーヌというのは、16世紀のヨーロッパの宮廷で定番的に踊られていた舞曲の一つで、ゆったりとしてやや荘厳な雰囲気を持っています。

ラヴェルはバスク人の母を持ち、度々里帰りのようにバスクを地方訪れ、そのルーツを生涯誇りにしていました。この作品はたまたまスペインに縁があるだけかも知れませんが、彼の作品には「スペイン狂詩曲」や「ボレロ」「ピアノ協奏曲 ト長調」といった、バスク地方をはじめスペインの影響を受けた作品が多数あります。

懐かしむという心の謎

ところで、人は何に懐かしさを感じるのでしょうか?昔住んでいた街を訪れたとき、古い友人に会ったとき。これらは自身の持つ記憶が呼び起こされているので、分かりやすい懐かしさですよね。

けれど、行ったこともない場所の写真や、生まれる前の時代の音楽に、理由もなく懐かしさを覚えることがありませんか?記憶がないのになぜか懐かしい。考えてみると、少し不思議な気がしませんか?

僕は、ノスタルジーというのは記憶ではなく想像に対して起こるものではないかと思っています。物事の定義が曖昧であるほど、自分の脳内で勝手に想像してしまう。そうして生まれた部分は自分の深層から湧き出てきたものなので、他人の過去のはずなのに自分のもののように感じられる。

そう考えると、この曲の題名はよくできていますよね。もし逸話が本当だったとしても、ラヴェルはマルガリータ王女本人を知りません。もちろん16世紀の宮廷でパヴァーヌが踊られる様子も見ていません。つまり、彼がこの曲を通して描き出したのは記憶ではなく、想像された過去です。だから聴いていると懐かしいのに、何を懐かしんでいるのか分からない。

ただ音を並べる美しさ

音楽表現において懐かしさを生む要素とはなんでしょうか?人それぞれいろいろな回答があると思いますが、個人的には停滞という言葉が一つの鍵だと思います。

とはいっても、リズム感なく弾くと生きた音楽にはなりません。ここでの停滞というのは、推進力のようなものを使わないということです。前に行こうとせず、どちらかというと今聞こえる響きをより深く味わうように弾くといった様子です。また、遅く弾きすぎるのもいけません。走ろうとしないだけで、歩き続ける必要はあります。

大学時代に一度、この作品をレッスンに持っていったことがあります。その時自分はピアニストでありながらも、実はオーケストラ版の方を好んでいました。その話をしたら、先生は「ピアノ版の方がこの曲は美しいと思うけどなぁ」みたいなことをおっしゃっていました。もちろん好みはあると思いますが、今は確かに、ピアノの方が良い気がします。音色の違いなど理由はいろいろありますが、なんとなく一人で完結してしまうピアノの方が、少しセンチメンタルな雰囲気にあっているような気もします。

音の重なりの描き分け

ラヴェル 亡き王女のためのパヴァーヌ 譜例

一つだけ技術的なことを話しておくと、この作品を弾く際に大切なのはレイヤー毎の意識です。上の譜例を見ていただければ分かる通り、各声部の音色をしっかりと分けてやらないと、何をやっているのかわからないような演奏になってしまいます。大切なのは、アクションを手の中で切り分けることです。長く歌い続けるためのタッチと、それを彩るためのタッチは別物です。

もしどのような音色を目指せばいいのかがわからない場合は、一度オーケストラ版のスコアを見てみるといいでしょう。なんの楽器が使われているかを知り、その楽器が生む音色やメロディがどんな気持ちを生むのか、その気持ちをピアノで引き起こさせるにはどんな弾き方をすればいいのか、という順序で考えると早く自分なりの答えに辿り着きます。

まとめ

有名な逸話があります。晩年、記憶を失ったラヴェルがこの曲を聴いて「美しい曲だ、誰が書いたんだろう」と言ったという話。日本ではかなり広く知られていますが、明確な出典はありません。主治医の記録では、彼が自作を認識していたことを伝えています。この曲はもともと、実在の王女への追悼ではなく、昔の宮廷で踊られたであろうパヴァーヌを想像して書かれたものでした。誰の記憶でもない、想像上の懐かしさ。その隙間が、百年かけて、ありもしない逸話をひとつ産んでしまった。そういう曲なのだと思います。

干梅太郎

干梅太郎

イタリア在住のピアニスト。クラシック音楽と、イタリアの古い服について書いています。
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