唐突ですが、バブアーなんかの実用品由来の洋服がトレンドになっているときに、それを「ギア」として蘊蓄を垂れている人の話を聞くと、時々思うことがあります。
「その機能、お前の生活のどこで必要なん?」
我ながら嫌な言い方です。例えば東京に住んでいても雨は降りますし、風も吹きます。自転車で移動する人も、外で働く人もいるので、都市生活に道具としての服が必要ないと言いたいわけではありません。
ただ、舗装された道を歩いて駅に入り、空調の効いた電車に乗り、カフェや服屋を回る。その日の上着について、過酷な環境を生き抜く装備を選んだような調子で語られると、少しついていけなくなります。
今日、どこへ行くんでしょうか。
例えば、秋田での冬の屋外生活について話しているなら、こちらもまず何を着るかなど、服の性能の話を聞くと思います。もちろん、その用途にバブアーが最適かどうかは別の話です。しかし、必要としている人の話には、その性能がなかったら困る場面がある。駅からお店までの数分を歩く話とは、やはり切実さが違います。
それなのに、服を語る時だけは、ずいぶん厳しい自然の中に住んでいる事になっている。僕が引っかかるのは、その落差です。
「かっこいいから」ではいけませんか
バブアーの形が好き。襟の感じが好き。あの色を手持ちの服に合わせたい。そういう理由なら、何も不思議には思いません。英国の田舎に憧れるから、でも良いと思います。服を着て、行った事のない場所の気分を味わうのも、ファッションの楽しさだと思います。そうしたムードが大きくなると、流行になるんだと思います。
最近僕には、ビデイルが街のおしゃれ好きの制服のように見えることがあります。もちおん定番アイテムが流行すること自体は、そこまで不思議ではありません。ただ、皆が同じような上着を選んでいる時に、その選択が「流行に左右されない実用品選び」として語られると、流行と何が違うん?とは思います。ところが「かっこいいから買いました」というシンプルな理由だけでは、どうもいけない事があるようです。
本来はこういう用途の服で、これだけの歴史があって、実用品として完成されていて。そういう説明が重なるうちに、いつの間にか、見た目で服を買う人とは違う判断をした事になっている。流行りだから買ったと思われるのは、そんなに嫌なのでしょうか。
もちろん歴史を知るのは楽しいですし、機能に惹かれる事もあるでしょう。背景を知ることで、合わせ方を考える楽しみが増えることもあります。僕も洋服の背景を調べて記事を書いているので、それを否定したら自分のブログのかなりの部分がなくなります。
ただ、好きになった理由を話す事と、その買い物がいかに浅薄でないかを証明する事は、少し違うと思います。
見た目が好きで選んだ服なのに、そう言うと流行に乗っただけの人に見られる気がする。だから、実用のために選び抜いたように説明する。もしそうなのだとしたら、随分と他人の目を気にした買い物ではないでしょうか。
「見た目が好き」は、薄い理由でしょうか。少なくとも僕には、自分が欲しかったものについて、自分で責任を持っている言葉に聞こえます。
一生物は、買った日に決まるのか
この手の話に、よく加わるのが「一生物」という言葉です。
丈夫である事も、修理して使える事も、製品の長所です。そこにお金を払うのは理解できます。ただ、一生物になるかどうかは、買った時点ではまだ分からないと思います。
ぶっちゃけ、修理できる服を買った人が、実際に修理するとは限りません。来年には違う服が欲しくなるかもしれないし、体型や生活が変わって着なくなるかもしれない。売っぱらってしまうかもしれない。それ自体は普通の事です。
逆に、特に一生物として売られていなかった服が、持ち主にとって長年の一着になる事もあるでしょう。ユニクロのナイロンパーカーを気に入って、大切に着続ける人がいても、何もおかしくありません。もちろん、服によって寿命には差があると思うので、使いたいという心意気さえあれば何でも永久に使える、という話ではないと思います。
それでも、買う時の立派な説明と、買った後にどう付き合うかは別の話です。
「これは一生物です」と宣言する人の隣に、何も言わずに同じ上着を何十年も着ている人がいるかもしれません。でも、その人は服について発信しない、あるいは〇〇の××という話に興味がないので、周りには見えていないだけかもしれない。
僕は、そういう人は案外たくさんいるのではないかと思っています。一生物という言葉は、本当はずっと後になって「あれはそうだったな」と振り返る時のほうが、似合う気がします。
継ぎ当てにも、格があるのでしょうか
修理の話も、考え始めると少しややこしいです。専門の修理で元の姿に近づける。それには技術が要りますし、見た目や機能を維持できる事に価値があるのは分かります。僕だって、気に入った服はできるだけ好きな姿のまま着たいです。
では、手元にあった布で穴を塞いで、そのまま着ている人はどうでしょうか。
色も微妙に合っていないし、縫い目もきれいではない。しかし、本人はそれで困っておらず、まだ着られるから着ている。物を使い続けるという意味では、こちらも十分に実践しているはずです。
もし、ブランド物の上着の補修は「味」になり、安い上着の不揃いな継ぎ当ては「貧乏くさい」と感じるなら、僕たちはそこで何を褒めているのでしょうか。物を大切にする姿勢でしょうか。それとも、大切にしている姿までがちゃんとかっこよく見える事でしょうか。
もちろん見た目がかっこいい方がいいというのは自然なことだと思います。僕にもその気持ちはあります。ただ、見た目をかっこよく保つことと、物を大切にすることは、必ずしも同じではありません。そこを飛ばして、自分自身が物との付き合い方を心得ているように語るのは、少し都合が良すぎる気がします。
僕も、必要のない服を買っています
ここまで書いておいて何ですが、僕のクローゼットも、実用上の必要だけでは到底説明できません。
ジャケットの仕立てや、生地の手触りや、ブランドの背景について、随分と長い文章を書いてきました。知らない人から見れば、どれも似たような上着かもしれません。好きだから違いが気になるし、違いを知ると、また欲しくなる。そういう買い物をしています。
なので、バブアーを好きな人に向かって、そんな服は必要ないだろうと言い切れる立場ではありません。必要のない服を取り上げられたら、僕も死ぬほど困ると思います。ただ、仕立ての良い服を買ったからといって、僕自身まで上等になるわけではない。その服を作った人の技術と、それを買った僕の人格は、別々のものです。
長く使える服についても同じで、その可能性を買う事はできても、長く使ってきた年月まで一緒に買う事はできません。この区別は、自分が好きなものについてほど、忘れたくないと思います。
どこであろうと、好きな上着を着ればいい
バブアーを着て、東京のカフェでコーヒーを飲む。それで良いと思います。用途に対して大げさな性能があっても、その服が好きなら、それも含めて楽しめば良いのでしょう。気になるのは、その楽しみ方にまで「ただのおしゃれではありません」という弁明が付いてくる事です。
道具を分かっている。一生物を選んでいる。流行には振り回されない。説明を足すたびに、買った人の人物像まで立派になっていく。でも、その説明は誰に向けたものなのでしょうか。
軽薄に思われたくないという気持ちは、僕にもあります。こうして理屈を並べている時点で、あまり他人の事は言えません。それでも、軽薄に思われまいとするあまり、自分の好みにさえ立派な理由が必要になるのは、窮屈だと思います。
「かっこよかったから買いました」で済む買い物に、そこまで自分の見識を背負わせなくても良いのではないでしょうか。その上着は雨風を防いでくれるかもしれませんが、他人から軽薄に見られる事まで、防いでくれる必要はないと思います。






