天才を理解してしまった男|映画『アマデウス』とサリエリの本当の悲劇

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映画『アマデウス』。1984年公開、アカデミー賞8部門受賞。おそらく、クラシック音楽を題材にした映画のなかでいちばん多くの人が観た一本だと言えるでしょう。

僕も音楽やピアノを勉強している端くれなので、映画の名前そのものは知っていたのですが、なんとなく見る機会がありませんでした。ただ最近になって、ようやく観る機会があり、かなり衝撃を受けました。

僕はディレクターズカット版を視聴したのですが、全部で三時間ということを見る前に聞いて、最近映画を見ていなかった身としてはかなり本腰を入れて映画を見るという気分でした。しかし始まってみるとあっという間で、正直とても面白かったです。美術も、衣裳も、音楽の選び方も好きでした。フィクションとして観るぶんには、文句のつけようがありません。

ただ、ピアノを弾く人間として観ていると、突っ込みたくなるところが次々に出てきます。そして観終わったあと、うまく言葉にならない、やたらと複雑な気持ちが残りました。

面白かった。よくできている。でも、なんだろうこれは、という感じです。そこで今回は、その複雑さの正体を、書きながら整理してみたいと思います。

ちなみに有名な話で、いまさら僕が指摘することでもないかもしれませんが、この映画のモーツァルトもサリエリも、現実にはあんな人間ではありません。 引っかかるのはそこではなくて、二人の人格が「天才」と「凡人の頂点」という配役のほうに引っ張られすぎて見えることにあります。

天才は破滅的で、凡人は嫉妬する。この組み合わせ、よく見ますよね。でも実際の人間は、もっと複雑です。そして観たあと、ふと思い返していろいろ調べているうちに、ひとつ気づいたことがありました。この映画には、ハイドンが一度も出てきません。今回はその話を書きます。かなり長くなります。

まず、この映画がどれだけよくできているかの話から

批判めいたことを書く前に、先に言っておきたいことがあります。この映画は、異常によくできています。

まず、画面そのものが良い。美術と衣裳は、この年のアカデミー賞でどちらも受賞しています(衣裳デザインはテオドール・ピシュテク、美術はパトリツィア・フォン・ブランデンシュタインとセット装飾のカレル・チェルニー)。撮影の大部分はプラハで行われていて、画面のなかでウィーンを演じているのは、実はプラハの街です。

服を見る人間としては、宮廷場面の絹の照りと、モーツァルトの浮いた色づかいの対比が面白かったです。あの衣裳は、人物の性格をそのまま着せています。 サリエリは終始落ち着いた色に収まり、モーツァルトは場面ごとに周囲から浮く色を着る。記号としては分かりやすすぎるくらいですが、映画としてはよく効いている。そして、あとで書くことの伏線になりますが、この映画の記号化は、衣裳の段階からもう始まっています。

そして、音楽です。いちばん分かりやすいのが、セレナード《グラン・パルティータ》K.361 の第3楽章が流れる場面です。老サリエリが、モーツァルトの楽譜を初めて目にする。低く長く持続する音の上に、オーボエが一つの音を置く。それをクラリネットが受け取って、甘さに変えていく。サリエリはその過程を、ほとんど実況のように言葉にしていきます。

ここで注目したいのは、映画が「モーツァルトは天才である」と台詞で宣言していないことです。

普通の伝記映画なら、まわりの人物に「彼は天才だ」と言わせます。この映画はそれをしません。代わりに実際の音楽を鳴らして、それを聴き取れる人間の顔を映す。 観客は、天才を説明されるのではなく、天才が誰かに届く瞬間を目撃させられます。

そしてここに、この映画の最大の逆説があります。

モーツァルトの偉大さを観客に伝えているのは、モーツァルト本人ではありません。サリエリです。

映画を通して、僕たちはほぼ必ずサリエリの耳と言葉を経由してモーツァルトを聴いています。彼は敵役であると同時に、この映画の音楽解説者であり、最も注意深い聴き手です。実際アイドルの追っかけのごとく、ドン・ジョバンニの公演も全て聴きに行ったとモーツァルトに告白しているくらいには、彼はモーツァルトの大ファンなのです。

だとすると、素朴な疑問が立ちます。

彼を「凡人」と呼ぶなら、この異常に鋭い耳のことは、何と呼べばいいのでしょうか。

この記事で書きたいのは、結局そこです。先に結論を置いておきます。

この映画におけるサリエリの悲劇は、才能がなかったことではありません。むしろ彼は才能を認識する能力だけは、十分すぎるほど持っていました。だとすれば、僕たちが見ている「神に愛された天才モーツァルト」というイメージは、その敗北に意味を与えるために、サリエリ自身が自らの作り上げてしまった。そして、そのことに一生囚われ続けたということです。

サリエリが作曲した「モーツァルト」

告解という枠

思い出してほしいのは、この映画の全体が、老人になったサリエリの告白だということです。

冒頭、自殺を図って精神病院に収容された彼のもとに、若い司祭が来ます。物語はそこから始まる回想です。つまり、映画全体のストーリーはサリエリの告解という枠のなかに置かれています。だから、ここに現れるモーツァルト像を、サリエリの記憶や価値観に強く染められた像として読むことができます。

下品な笑い声。幼児じみた振る舞い。宮廷での無礼。訂正のない美しい楽譜。

これらは客観的な描写である前に、サリエリの才能観を目に見える形にしたものとして読めます。彼にとってモーツァルトは「神が選んだ不当な器」でなければならない。器が下品であればあるほど、選んだ神の不当さが際立つからです。

そしてこの語り手は、単純な嘘つきではありません。もっと厄介です。彼は自分の罪も誇張している。 毒殺者を名乗ることは、罰を求める行為であると同時に、忘れられた自分の名前を、モーツァルトの名前に永久に接続する行為でもあります。音楽で不死になれなかった男が、物語で不死になろうとしている。この映画のサリエリが最後に残した作品は、音楽ではなくこの告白そのものだと僕は思っています。

この物語は、映画が発明したものではない

もうひとつ押さえておきたいのが、毒殺の物語には長い前史があることです。

プーシキンが1830年に小さな劇『モーツァルトとサリエリ』を書いています。ピーター・シェーファーの戯曲『アマデウス』は1979年、英国ナショナル・シアターで初演され、その脚色として1984年の映画が作られました。

つまりこの映画は、史実を脚色したというより、19世紀以来の伝説を自覚的に作曲し直したものです。

最も大事なところ

ここで最も重要な事実ですが、映画のサリエリが抱く天才観は、同時代にすでに芽生えていた天才論を、のちのロマン主義的な芸術家像の方向へ極端に押し進めたものです。芸術を労働ではなく啓示とみなし、才能を神が配る恩寵とみなし、芸術家を選ばれた特別な存在とみなす。こうした「天才」とは何かという考え方に関しては、カントが1790年の『判断力批判』で天才を「芸術に規則を与える自然の賜物」としてすでに論じたりと、美学として芽生えていることは確かですが、それが成熟するのは、ロマン派期、つまりモーツァルトが死んだ後です。当時の作曲家の仕事は、宮廷・劇場・教会での職務、委嘱、出版、演奏会、教育など、具体的な経済活動と強く結びついていました。現代人が想像するマエストロ像と違い、もっと世俗的で経済的な観念があったのです。

つまり、この映画の最も大きな時代錯誤は、かつらでも衣装でもなく、美学にあるといえます。

18世紀の服を着た人物が、19世紀のより成熟した芸術観で苦しんでいる。映画の天才観には18世紀後半にすでに存在した天才論を、のちのロマン主義的な“孤独な天才・霊感・永遠の作品”という芸術家像へ極端化したところがあるということになります。つまり、映画では一連の美学に関する変化を、後世の完成形から逆向きに配置していることになります。この視点を持っておくと、後半のハイドンの話とコンスタンツェの話が、ぜんぶ同じ一本の線でつながります。

サリエリは凡人ではない

ここからは、映画のなかのサリエリを具体的に見ていきます。

彼は職業的な敗者ではない

まず、映画のサリエリは、全く負けていません。宮廷作曲家として絶対的な地位があり、皇帝に信頼され、弟子がいて、技術があり、教養があり、聴衆に届く書法を持っています。街を歩けば自分の曲が口ずさまれている。これは、誰がどう見ても大成功した音楽家の人生です。

楽譜を「読むだけ」で音が鳴っている

いちばん彼の能力が現れるのが、コンスタンツェが夫の自筆譜を持ってサリエリを訪ねる場面です。彼は無言で初めてみる譜面をめくります。映画の演出として音楽が流れ始めますが、もちろんあれはスピーカーから鳴っている音ではなく、サリエリの頭のなかで鳴っている音を表していますよね。

これが瞬時にできる人間を、僕たちは「凡人」とは呼びません。少なくとも高度な読譜力、内的聴覚、様式の理解が全部揃っていないと、あの場面は成立しない。しかも彼は、複数の作品を続けて読みながら、その完成度と差異を即座に判定している。

《レクイエム》の口述の場面も同じです。速度についていけずに戸惑いながらも、モーツァルトが省略した指示を質問で埋め、声部を紙の上に組み立てていく。もちろん映画なので誇張されている部分もありますが、譜面を指示通りに書くというのは、高度に訓練された専門家でなければ務まりません。

だから「mediocrity」は、能力の話ではない

映画のサリエリが自分に投げつける「mediocrity」という言葉は、能力の欠如を意味していません。本来非常に高いはずの能力が、たった一つの突き抜けた比較対象によってさも無価値かのように写ってしまう。それがこの映画の「凡庸」だと考えます。

これは客観的な判定ではなく、自らの比較によって自分を処刑する言葉です。映画を通して見ていればわかりますが、登場人物は誰一人としてサリエリを否定していません。この記事では以降、「凡庸」を必ずカギカッコ付きで、サリエリ自身の判決として扱います。

才能を四つに分けてみる

ここでひとつ、整理の道具を提案します。「天才/凡人」という一本の線を、四本に分けてみます。

能力映画のサリエリ映画のモーツァルト
価値を聴き分ける能力非常に高い高い
作品を作る能力高い突出
制度のなかで成功する能力非常に高い低い
死後に残る/残される条件持たない持つ

こうして並べると、この映画の対立が「天才 vs 凡人」ではないことが見えてきます。二人とも能力があることは間違いないはずですが、傾向を見るとサリエリは①と③に強く、モーツァルトは②が突出していて③が弱い。

そして④、これは後半の山場になります。実は④は本人の能力ですらありません。

ちなみに①の能力についてですが、価値を聴き分ける能力、音楽で言うと要するに、上手いか下手かと言う話につながりますが、これは訓練を受ければ受けるほどより鮮明になぜ違うのかという説明ができるようになります。例えばピアノの単純な話でいうと、和音を汚い音で弾いている、でも弾いている音そのものは間違っていないはずという場合に、どのようにバランスが悪いから汚く聞こえるのかといったことは、訓練すれば感覚が研ぎ澄まされていきます。

他にも、リズム感、フレーズ感など、なぜ弾けないのか、なぜうまく行っていないのかがより鮮明にわかります。逆に言えば、なんでこんなことができるのか?と驚かされることもあります。ピアノは弦をハンマーで叩くという性質が故にレガートが非常に難しい楽器ですが、まるで歌っているかのような綺麗なレガートで弾ける人がいる。それをどうやったらできるのか、理屈ではなんとなく分かっても、実際にコントロールするのは非常に難しい。などといった細かい描写が、技術面だけでもはっきりとします。

神との契約 努力した者が選ばれるとは限らない

サリエリが結んだつもりでいた契約

若いサリエリは、神と取引をします。貞潔を守り、勤勉に働き、他人に尽くす。その代わりに、音楽で神を讃える才能をくださいと。注目すべきは、これが信仰ではなく契約だということです。無償の服従ではなく、対価を期待した投資になっている。

だから契約が履行されていないと感じた瞬間、彼は神に宣戦布告します。十字架を燃やす場面は、信仰を捨てる場面ではありません。取引相手を訴える場面です。

節制しているのはモーツァルトだけではない

この映画がうまいのは、サリエリを禁欲の人として描きながら、彼が甘いものを貪る姿を繰り返し映すところです。

表向きの節制の内側に、ちゃんと欲望がある。肉体的で幼児的なのはモーツァルトだけではありません。サリエリは欲望を抑圧して社会的成功に変換し、モーツァルトは欲望を露出させながら作品には秩序を与える。この反転は、この映画のいちばん面白い設計のひとつだと思います。

ディレクターズ・カットでは、これがもっと露骨になります。 コンスタンツェが夫の楽譜を持って助けを求めに来たあと、サリエリは彼女を夜にもう一度来させ、服を脱がせ、そのうえで召使いを呼んで追い返す。禁欲の人が持っていた権力の使い方が、はっきり画面に出てきます。劇場公開版にはない場面です。

人格は、作品の保証書ではない

この映画が壊しにかかっているのは、「偉大な作品は偉大な人格から生まれる」という素朴な期待です。

礼儀を欠き、家計を壊し、酒を飲み、下品な冗談を言う人間から、異様に均衡のとれた音楽が出てくる。 サリエリの道徳的な世界観は、ここで崩れます。

ここは両方向をきちんと書いておきたいところです。

  • 作品の価値は、作者の人格によって帳消しになりません。
  • 同時に、作品の価値が作者の行為の免罪符になるわけでもありません。

そして映画は、この切断を二人それぞれで示しています。サリエリは社会的人格において立派に見え、芸術家としても有能で、しかし他者を破壊する。外面的な成熟も、芸術的な能力も、倫理性とは直結しない。

ただし、この切断を鮮明にするために、映画はモーツァルトの人格を必要以上に記号化しました。ここが、冒頭に書いた引っかかりの正体です。 その話を、これから三つの章に分けて書きます

音楽はBGMではなく、証人である

この映画で使われる音楽は、雰囲気づけではありません。ドラマの因果そのものとして働いています。 サリエリの認識が深まっていく順番で見ていきます。

《フィガロの結婚》 価値と成功は一致しない

無音のバレエ稽古の場面。皇帝の規則によって音楽を消された踊りが、音のないまま続く。行政的な命令で音楽を消すことの滑稽さと暴力を、実際の沈黙として見せる。 映画でしかできない場面です。

そして皇帝のあくび。あれは批評ではありません。作品の価値について何も言っていない。それでも制度のなかでは、作品の運命を左右してしまう。

ここで史実を一つ挟みます。《フィガロ》が1786年のウィーンで9回上演されたのは、事実です。 5月1日の初演を含めてレオポルトの手紙によれば、第2回公演では5曲、第3回公演(5月8日)では7曲がアンコールされた。翌9日、ヨーゼフ2世は重唱以上のアンコールを禁止するよう命じた。ここまでが記録に残っている話です。一方プラハでは大成功を果たしており、街ゆく人々がテーマを口ずさむ様子に、モーツァルトは非常に喜んでいたという逸話もあります。

つまり、映画が創作しているのは回数ではなく、因果のほうです。 あくびと陰謀という一本の説明に、興行の事情も、競合作も、宮廷の政治も、全部畳み込まれている。

ディレクターズ・カットでは、この畳み込みがさらに進みます。 モーツァルトが王女の音楽教師の職を得ようとするのを、サリエリが裏で潰す場面が追加されている。おかげでモーツァルト一家の困窮の原因が、より直接的にサリエリ一人に集約されます。社会の描写としては少し弱くなりますが、人間の内面的な物語としてはより色濃くなります この取引が、この映画の設計を象徴しています。

《ドン・ジョヴァンニ》 サリエリは作品を「暗号」として読む

父レオポルトの死。そして黒い装束の騎士長像。映画はこの二つを直結させ、オペラを父の亡霊と罪と裁きの心理劇に変換します。冒頭のサリエリの自殺未遂の場面にも、すでにこの音楽の影が置かれている。裁きの音が、老いたサリエリまで追いかけてきます。

うまい演出だと思います。ただ、ここで一度立ち止まりたい。これは作品分析ではなく、サリエリがモーツァルトの作品を伝記的な暗号として読む行為です。 《ドン・ジョヴァンニ》の喜劇性も官能性も後景に退き、石像の場面だけが印象的に、映画の装置として使われています。その効果が魅力的であるほど、作品を作者の心理に還元してしまう危うさも一緒に大きくなります。ここは書き手として自覚しておきたいところです。

《魔笛》 明るい作品と、壊れていく身体

宮廷を離れて郊外の民衆劇場へ。高級な音楽と大衆的な見世物が同じ舞台に乗る。サリエリが信じていた高級/低級の序列が、ここで崩れます。

そして舞台上のパパゲーノの陽気な身振りと、グロッケンシュピールを弾くモーツァルトの衰弱した身体が、一つの画面に収まる。作品の明るさは、作者の幸福とは一致しません。 人格と作品が一致しないだけでなく、身体の状態と作品の気分も一致しない。成功の歓声が聞こえていても、それは生活の救済には間に合っていない。あろうことか、演奏中にモーツァルトはついに意識を失って倒れてしまう。

《レクイエム》 敵が、最初の弟子になる

この映画において最も重要な装置として働いている作品がこのレクイエムです。本来の史実では、モーツァルトには身元を明かさなかった依頼主ワルゼッグ伯を、映画では仮面をつけて身分を隠したサリエリ=父の亡霊に変形させ、モーツァルトに自分自身の葬送曲を書かせる装置にします。

そして口述の場面。あそこで起きているのは、完成した音楽の再生ではありません。

バス、テノール、アルト、ソプラノ、伴奏。声部が一つずつ足されていき、観客の耳のなかで《Confutatis》が組み上がっていく。観客が体験しているのは「完成した曲」ではなく、「音楽を生成していく際の聴覚」そのものです。 音楽を題材にした映画で、ここまでのことをやった例を僕は他に知りません。

しかも典礼文の内容がまた効いている。呪われた者と、祝福された者。 神に拒まれたと信じる男と、神に愛されたと彼が見なす男が、そのままテキストの内側に配置されている。

そして、サリエリは、モーツァルトを殺そうとしながら、その音楽をこの世に残すために必死で書いている。終始複雑な関係の二人ですが、この場面は最も大きな矛盾をいくつも抱えている。

破壊者と保存者、敵と弟子、殺人者と最初の聴き手が、同じ人物のなかで同時に成立している。モーツァルトが「あなたを誤解していた、許してください」と言うのは、この直後です。加害者が被害者から承認を受け取るという、残酷な反転。 彼が人生でいちばん欲しかった同業者からの承認が、取り返しのつかなくなった場所で届く。自分の音楽に絶対的な自信があったモーツァルトですが、この場面ではサリエリを自分の芸術がわかる人間=高い能力がある人間だと認めている。なんとも皮肉なことでしょうか。

そして死後の《Lacrimosa》。ここではもう、誰も音楽について論評しません。音楽そのものが葬列と観客を支配します。 ある意味陰謀は成功したのに、彼が所有したかった音楽は彼を越えて流れていく。そして彼は永遠にその呪いに苦しむのです。ここまでが、この映画の素晴らしいところです。

ハイドンはどこにいるのか

不在の指摘から

もう一度書きます。この映画に、ヨーゼフ・ハイドンは一度も出てきません。名前こそ一瞬出てきますが、モーツァルトとの関係は完全に描かれていません。

1780年代のウィーンを舞台にして、モーツァルトの音楽人生を描いて、ハイドンが一度も出てこない。これは、揚げ足取りではありません。この映画の神学が成立するための、必要条件に関わっています。

なぜ「必要条件」なのか

サリエリが神に敵対した理由を、いちど命題の形に分解してみます。彼が神に向かって言っているのは、こういうことです。

  1. 神に選ばれた者=モーツァルト は、人格において破綻している
  2. 徳と勤勉を備えた者=サリエリ は、才能において劣る

この二つが同時に成り立つときだけ、「神は不当だ」という告発が成立します。

ここでハイドンを画面に一人立たせてみてください。エステルハージ家という大貴族のお抱えであり、モーツァルトやサリエリに並ぶ最高位の作曲家。勤勉で、三十年近く職務を全うし、信仰篤く、長命で、生活能力があり、他人に嫉妬されるより慕われた人。彼がこの舞台にいるだけで、この二つの事実から「徳と才能は両立しない」という一般則を引き出すことができなくなります。ハイドン自身が、その反例だからです。

サリエリが凡人だという設定のうえ、才能が徳の逆関数だという命題に対して、ハイドンは歩いている反例になってしまいますよね

決定的なのは、ハイドンが「同じものを聴いていた」こと

1785年の1月15日と2月12日、モーツァルトの自宅で、六曲の弦楽四重奏曲が演奏されました(1月15日に六曲が披露され、2月12日にはそのうち最後に完成した三曲が再演された)。ハイドンはその場にいて、演奏を聴いています。そのあと彼は、ウィーンに来ていた父レオポルトに、こう言いました。

神にかけて、正直な人間として申し上げます。ご子息は、私が直接存じ上げる限りでも、お名前を存じ上げる限りでも、最も偉大な作曲家です。趣味をお持ちで、そのうえ、作曲についての最も深い知識をお持ちです。

(レオポルトが1785年2月16日付で娘のナンネルに書いた手紙に、この言葉が記録されています)

ハイドンは、サリエリとまったく同じようにモーツァルトの才能、すなわち神の音楽を聴いています。 自分より先へ行っている音楽を、正確に、深く、逃さずに聴き取っている。当時のハイドンは五十代の大家です。自分が霞む可能性をいちばん具体的に測れる立場にいました。

同じ耳。同じ距離の測定。それでも返答が違う。映画のサリエリはそれを 順位 に変換しました。現実のハイドンはそれを 証言 に変換しました。しかも、神にかけて、と前置きをつけて、声に出して。だから、この記事の主張をもう一段だけ進めることができます。

映画のサリエリを滅ぼしたのは、聴く能力ではありません。聴き取ったものを順位に変換してしまう習慣のほうです。

そして、献辞

ハイドンの前で演奏された、今では《ハイドン・セット》と呼ばれている K.387 以下の六曲を、モーツァルトはハイドンに献呈しました。1785年、アルタリア社から Op.10 として出版されています。

その献辞のなかで、モーツァルト自身がこの六曲をこう呼んでいます。

Frutto di una lunga, e laboriosa fatica (長く、骨の折れた労苦の果実)

つまりこの映画の最大の嘘は、「訂正のない楽譜」と「神からすべてを与えられた天才という存在」です。それを否定する文書が、モーツァルト本人の手で残っています。そしてその文書の宛先が、モーツァルトとの関係を映画から切断された男なのです。

公平のために、留保を二つ

ここは強く書いているので、反論も自分で置いおきます。

ハイドンは1780年代の大半をエステルハージ家の楽長として過ごしていて、ウィーンの宮廷人ではありません。 だから宮廷の場面に出てこないこと自体は、それほど不自然ではありません。

それでも、この映画にはモーツァルトの自宅があり、フリーメイソンの集会があり、そしてヴァン・スヴィーテン男爵がいます。史実のヴァン・スヴィーテンは、バッハとヘンデルの演奏会を主催してモーツァルトに編曲させ、のちにハイドンの《天地創造》《四季》の台本にも関わった、まさに当時のウィーンの音楽界の結節点でした。

映画は、結節点である男爵を画面に置きながら、そこから何にも線をつないでいません。 だから僕は、この不在を「出番がなかった」ではなく「接続を切った」と読みます。

印のつかない不在

この不在は、実は語り手の心理として説明できます。サリエリは、自分の理屈を壊す反例を思い出したくない。 回想である以上、思い出さなかったものは画面に存在しない。

つまりハイドンの不在は、脚本の都合ではなく、サリエリの記憶の都合として読める。そこまでは、この映画の設計の緻密さの一部です。ただし、映画は、その不在に印をつけません。そして、印のつかない不在は、語り手の偏りではなく、世界の事実として観客に届きます。 ここが、この映画がサリエリの神学を最後まで相対化しきれていない、いちばん大きな箇所だと僕は思っています。

残ることは、事実ではなく労働である

サリエリが神の審判だと思っていたもの

映画の冒頭近く、老いたサリエリは、誰も自分の音楽を知らないことに絶望します。若い司祭は、サリエリの曲をひとつも知らない。そして数小節弾いただけの《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》は、すぐに口ずさむ。サリエリはこれを、神の審判として受け取ります。しかし史実において、これは決して判決ではありません。

モーツァルトの死後に働いた人がいる

モーツァルトが亡くなったあと、未亡人コンスタンツェは、皇帝に年金を請願しました。そしてウィーンとプラハでは、彼女と子供たちのための追悼・慈善演奏会が開かれました。《レクイエム》の補筆完成を差配し(アイブラーを経てジュースマイヤーへ)、完成稿の納品や写譜、作品の流通を管理しました。訓練を受けたソプラノとして自ら舞台に立ち、1794年の《ティートの慈悲》上演や、1795年から翌年にかけて北ドイツを演奏旅行して、夫の作品を広めました。

そしてモーツァルトの遺稿を管理し、出版社と交渉しました。こうした仕事は、のちの全集刊行やモーツァルト研究を支える基盤の一つになります1809年にニッセンと再婚し、1824年にザルツブルクへ移り、夫の伝記を共同で執筆。ニッセンの死後もそれを完成させ、1828年にライプツィヒで刊行しました。遺族が保管した自筆譜、書簡、遺品が、のちのモーツァルテウム財団の中核資料になります。その間なんと五十年です。コンスタンツェはモーツァルトの死後も生涯かけて彼の作品を後世に伝えるための活動を続けていました。

この事実が示すこと

つまり、モーツァルトの作品がこれだけ広く残ったのは、神に選ばれたからではありません。残す人間がいたからだという事実が非常に大きいです。

この映画が唯一まったく描かない種類の力が、実際にはその不滅を支える重要な力になっていました。地味で、持続的で、事務的で、そのかなりの部分が女性の手による労働です。映画のコンスタンツェは、お金の心配をし、夫を叱り、自筆譜を抱えて他人の家を訪ね、そして夫の死とともに物語から消えます。ディレクターズ・カットは彼女の出番をむしろ増やしていますが、増えたのはサリエリの権力の対象としての場面です。屈辱を受ける場面には尺があって、五十年の仕事には一秒もない。

忘却は判決ではない

ここでもう一つ、反転を書いておきます。18世紀のオペラ文化、とりわけ新作供給を中心とするイタリア・オペラの世界では、作品が短期間でレパートリーから消えることは珍しくありませんでした。実際同時代の作品の多くは、数シーズンで舞台から消えており、今のように固定レパートリーがしっかり定着していて、その上で新作が上演されるという形ではありませんでした。変な話、今流行りなんて言われている曲が半年も経てば忘れられてしまうのと同じ現象とも言えるでしょう。

つまり、サリエリの音楽が忘れられたことは彼の責任ではなく、むしろ標準的な当時の消費活動の結果とも言えるでしょう。むしろモーツァルトの作品が残ったことのほうが例外的だったとも言えます。

映画はサリエリの忘却を、神と芸術による裁きとして描きます。実際にはそれは、当時の興行の平凡な帰結でした。映画は、レパートリー経済の当たり前の結果を、形而上学的な判決に読み替えているわけです。

ここで、服の話と同じことが起きている

これは僕がこのブログで何度か書いてきたことと、まったく同じ構造です。

イタリアには、自分たちの失われたブランドを記録する習慣がありません。会社がなくなり、公式アカウントが止まって、それで終わりです。一方、日本では雑誌が名前をつけ、写真に撮り、カタログ化した。だから日本の読者の記憶には、載ったブランドだけが残っています。

品質の差ではありません。編集されたかどうかの差です。

編集とは、名前をつけ、記録し、目録にする作業のことです。一度そうされたものは、死ににくくなる。されなかったものは、良し悪しと関係なく消えます。

モーツァルトには死後、非常に強力で持続的な『編集』の連鎖が生まれた。それをやったのが、五十年働いた未亡人と、彼女が交渉した出版社と、遺稿を整理した人たちです。サリエリには、少なくとも同じ規模ではそれが起きなかった。

L’archivio perduto #1 Abla(アブラ) ― 失われたナポリ既製服の頂点を実物とともに記録する

ただ、編集されて残ったものが本当に素晴らしいのか?と言われるとそれもまた難しい問題になると思います。例えば、音楽の演奏は時間を扱う芸術なので、物質的に残すことは難しい。それを、現代では電子データとして残しているわけですが、それは時間の一部しか切り取れていないと思います。

映像にしても結局3Dではない、その会場の気温、匂い、時間、その日の気分。そういった他の要素も合わさって演奏という芸術は完成されると感じています。なので、データ化してしまうと、それはもう100%純粋な芸術ではないのかもしれない。しかし、我々は録音する他伝達する手段を持たない。我々音楽家はジレンマとして考え続ける必要があると思います。

「才能を理解する才能」は、救いになるか

知らなければ幸福だったのか

サリエリの人生は、モーツァルトに会う前にも成功していました。地位があり、評価があり、街に自分の旋律が流れていた。

では、モーツァルトを聴かなければ、彼は幸福でいられたのでしょうか。

おそらくですが、一度聴いたらもう戻れないのだと思います。尺度が更新されてしまうからです。以前と同じ成功が、同じ意味を持たなくなる。

これは別にサリエリとモーツァルトのレベルでなくともあることだと思います。普段よりちょっと高いお米を買って炊いてみると、前まで食べていたものが少し物足りなく感じる、天然繊維の服を着ると、それまで着ていた化学繊維の服に違和感を感じる。新幹線で移動してみると、夜行バスがキツく感じる。

よく、料理なんかでは舌が肥えるという表現がなされますが、何事においても多かれ少なかれ起きます。サリエリの場合、それが自分の最も大切なもので、それがどうしようもないという残酷さはあります。

聴く能力と、作る能力は別物か

これらは完全に別ではありません。優れた演奏にも作曲にも、聴き取りと判断は絶対に要ります。音楽的な基本の素養として共通している部分はたくさんあります。ただ、価値判断の精度と、同等のものを自分で生む能力は、完全に一致しません。

演奏者にも、この種の時間が長くあります。何が足りないか分かっているのに、身体がそこに届かない時間。耳のほうが先に行ってしまって、技術が追いつくのを待っている時間。サリエリの苦しみは、僕たちにとっては全く他人事ではありません。

彼の耳は正しい。でも彼の才能観は正しいのか

サリエリは、作品の偉大さを正確に見抜いています。ここまでは正しい。

問題はそのあとです。彼はそれを即座に「神が完成品を与えた」と解釈します。学習も、技術も、職人的な作業も、そこで消えます。

正確な鑑賞と、間違った因果の説明は、両立してしまう。 これが、この映画のいちばん見えにくい落とし穴だと思います。

比較の倫理 そして、順位で擁護しないこと

他人の偉大さを認めることと、自分の価値をゼロにすることは、同じではありません。サリエリは「モーツァルトではない」を「無価値である」に変換してしまった。

そしてここで、この記事自身への自己点検を書いておきます。サリエリを「実は上手かったんですよ」と擁護すると、サリエリの物差しを受け入れることになります。

順位で貶められた人を順位で救おうとすると、批判していたはずの枠組みを、こちらが再生産することになる。必要なのは順位の訂正ではなく、順位という装置から降りることです。

このブログでずっと書いてきたことと同じです。絶対的な価値はなく、あるのは認識と、自分の物差しだけ。

実際気になってピアノ協奏曲の楽譜などを探して弾いてみました。モーツァルトと同じ時代なだけあって、様式なども似ていますが、違う作曲家の作品であることがわかります。ただ、映画で誇張されるほどの絶望的な完成度の差はなく、美しい作品もあると思い興味が湧きました。今後何かの機会で本格的に取り組んでみるのもいいかもしれませんね。

映画が隠した、モーツァルトの苦労

「訂正のない楽譜」という、よくできた嘘

映画のなかで、サリエリはコンスタンツェの持ってきた楽譜を見て震えます。書き直しがない。下書きではなく、清書でもなく、最初からこうだった。これは、映画がいちばん強く打ち出す天才の証拠です。そして、いちばん危険な嘘でもあります。

現実には、スケッチが残っています。下書きが残っています。訂正の跡があり、異なるインクによる作業段階があり、未完のまま放置された曲が大量にあり、作品によって作り方そのものが違います。

唯一、モーツァルトは晩まではずっと働いていた、つまり楽譜を書き続けていたというような描写がありますが、それは書き直しが起きなかったという天才としての描写とは矛盾しません。どう足掻いても人間が手書きで紙に書く以上、当たり前のことだからです。

ただし、逆方向に単純化するのも違うと思っています。「実際は何度も書き直していた」でもありません。驚異的な速度も、高い内的構想力も、実在します。速く書けることと、スケッチをすることは、両立します。

天才は、様式の外からは来ない

もう一つ。映画はモーツァルトの音楽を、どこからともなく降ってくるものとして見せます。実際には、そこに至るまでに何があったか。幼少期からの教育。ヨーロッパ中を移動した演奏経験。父レオポルトの訓練。同時代の作曲家たちの作品。歌手の声質に合わせた書き直し。台本作者とのやりとり。劇場からの要求。注文主の都合。作品は無から生み出されたのではなく、彼の幼少期からの経験が合わさって初めて生まれるものなのです。

この神話の、どこが危ないのか

音楽を学んでいる人にとって、この映画の危険は「努力は不要だ」という点ではありません。もっと厄介で、多くの人が陥りがちなトラップだと言えます。それは制作の過程が画面に映らないために、結果の速度を才能の尺度だと誤認させてしまうことです。

速く弾けること。一度で覚えること。直しが少ないこと。これらは才能の一部ではあり得ますが、芸術的な価値そのものではありません。 ここを混同すると、練習の設計を間違えます。

かといって、「努力すれば誰でもモーツァルトになれる」という逆側の神話にも逃げません。素質の不均衡は現実に存在します。 ただ、素質を説明するために制作過程を消す必要は、どこにもありませんよね。

もっと言えば、早く大成しない=優れた音楽家ではないという勘違いについてもです。音楽的素養が限定的な期間にのみ育ち、それは誰もが一目でわかるというのは少し誇張されすぎです。音楽はそんなに単純なものでもありません。ただ、成功する速度に関しても音楽家としての技量と混同されてしまう傾向はあります。

記号になってしまった二人のこと

ここまで構造と対立の話ばかり書いてきたので、少し抽象的かつ個人的な印象について書きます。ぶっちゃけ、観終わってから、いまだに考え続けるのは、これらの感想です。

彼ら自身は、どんな気持ちなんだろう

サリエリという人は、実在しました。ウィーンで長く働き、家庭を持ち、弟子を育て、最後は自分の葬儀のための音楽まで書いた人です。ベートーヴェンも、シューベルトも、リストも、モーツァルトの息子も、彼に習っています。常に弱きものを助け、特に若い音楽家への支援を惜しまなかった素晴らしい人物だったと言われています。その人が、死後二百年にわたって「嫉妬深い凡人」の代名詞として使われ続けています。

モーツァルトのほうも同じです。彼は「下品で幼稚な天才」という役を着せられました。ちょっとした書簡に猥雑な冗談が書かれていることと、映画の一貫した幼児的な人格は、本来まったく別の話です。

実在した人間が、後世の寓話の駒になる。

めちゃめちゃ小学生みたいな感想なんですが、当人たちは、どんな気持ちなんだろうな、と思いました。聞けないので、答えの出ない問いです。それでも僕は、この問いを消さずに持っておきたいと思っています。言い当てる意味はないけど、それでもなんとなく心に残しておきたい気分だからです。

編集がもたらす影響

先ほどの段落で、編集されたものは残り、編集されなかったものは消える、と書きました。あの話には続きがあります。

個人的に、編集するという行為は、その対象を延命させる代わりに、生き物でもなくしてしまう力があるんじゃないかと思います。

名前がつき、目録に載り、分かりやすい輪郭を与えられたものは、たしかに残ります。ただしそのとき残っているのは、動いていたもの本体ではなく、輪郭のほうです。そしてサリエリは、この両方の作用を同時に受けたのです。

  • 彼の音楽は編集されなかったので、埋もれてしまった。
  • 彼の名前は編集されたので残った。ただし、事実ではなく舞台装置として。

同じ一人の人間に、正反対のことが同時に起きている。僕がこの映画を観終わって感じた「複雑さ」の正体は、たぶんこれです。

「凡人たちの守護聖人」について

映画の最後、車椅子で廊下を運ばれながら、サリエリは自分を「凡人たちの守護聖人」と名乗り、すれ違う患者たちを祝福していきます。

観たときは、皮肉な敗北宣言だと思いました。でも、こうして書きながら考え直すと、もう少し複雑なことが起きている気がします。あれは、記号になることを自分から引き受ける場面ではないか。

音楽で残れなかった彼は、意味のほうで残ろうとする。「凡人の代表」という役を、自分で自分に与えることによって。そしてその目論見は、実際に成功しました。僕たちはいまも、まさにその役として彼の名前を使っています。

この映画がいちばん怖いのは、たぶんそこです。 記号化を批判しながらこれを書いている僕自身が、彼の目論見どおりに、彼を記号として扱っている。

まとめ|それでも『アマデウス』が傑作である理由

長くなったので、三つの動詞で整理します。この映画が扱っているのは、才能をめぐる三つの別々の問いです。

問い映画の答え
見抜く才能を認識するとは、どういう経験か鋭い。 この題材で書かれたもののなかで、いちばん正確かもしれません
生まれる音楽は、どうやって作られるのか危険なほど単純です。 ここだけは擁護できません
残るなぜ、その音楽は後世に届いたのか完全に沈黙しています。 そしてこの沈黙が、サリエリの神学を最後まで反証されないままにします

それでもこの映画は傑作だと思います。史実を正確に再現したからではありません。

音楽の偉大さを台詞で宣言せず、実際の作品をドラマの因果として働かせたから。 そしてサリエリを単なる悪役ではなく、愛と憎悪が切り離せない「最も優れた聴き手」にしたからです。

観客はモーツァルトにはなれません。でも、サリエリのように聴くことはできてしまう。だから彼の屈辱が他人事にならない。 ここがこの映画の本質だと思います。

サリエリの敗北は、モーツァルトの音楽を理解できなかったことではありません。あまりにもよく理解したのに、その理解を、証言でも学びでもなく、順位と自己否定に変えてしまったことです。

実際の現実で何が起こったのかはわかりません。ただ、映画のサリエリが感じたような敗北感というのは、現実の世界でも起こりうることです。何かに情熱的に打ち込んでいる人ほど、陥りやすい苦しみなのかもしれません。あるいは社会的に比較競争から抜け出せないのが現代なのかもしれません。しかし、我々は今一度見つめ直し、自分を比較という檻から解き放ち、愛する必要があるのかもしれません。

『アマデウス』が残酷なのは、僕たちにモーツァルトの席を用意しないことです。映画が差し出すのは、その向かい側で音楽を聴き、価値を理解し、自分との距離まで悟ってしまうサリエリの席です。

でも、席はもう一つあったはずです。同じ四重奏曲を同じ部屋で聴き、同じ距離を測り、それでも「神にかけて、ご子息は私の知る限り最も偉大な作曲家です」と、声に出して言った男の席です。映画は、その席を用意しませんでした。ハイドンは呼ばれなかった。

天才の声を聞き分ける耳は、それ自体ひとつの才能でしょう。ただ、その耳が人を救うかどうかは、聞いたあとに何を言うかで決まります。

干梅 太郎

イタリア在住のピアニスト。クラシック音楽と、イタリアの古い服について書いています。
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